吐き気がするほど幸せな夢
エイプリルはいつにも増してご機嫌だった。
「お茶でも飲んでいかない?」と彼女は言った。ブルーは一も二もなく賛成した。相場より高めに商品が売れて、懐が暖かくなっていたというのもあるが、何よりへとへとに疲れていたのである。
通りから少し外れた喫茶店のテラス席に陣取った。濃いめの紅茶を取って一口飲み、蜂蜜を塗ったトーストを齧ったところでようやく一息ついた。気がつくと正午をずいぶん通り越して、昼下がりに差し掛かっている。この時間になって、ようやく通りの喧騒もひと段落したようだった。春の優しい日差しがエイプリルの白い頬にかかっているのを見て、ブルーは気持ちが和らいでいくのを感じた。
「ここからずうっと北のね、リプサリスやクレストトーソン岬のあたりでは」エイプリルが両手でカップを支えたまま、ブルーに話しかけた。「冬になると、海を氷が流れていくんだって。晴れた日の夕暮れには、西日が氷と水面それぞれに反射して、それはもう息を呑むほど綺麗らしいんだけど、あの辺りはいつも曇ってるし、日も短いからめったに見られないらしいよ。」
「そんな話、誰に聞いたの?」
「おじいさまよ」と、彼女は答える。
「知ってるでしょ、おじいさまは物知りなの。『お前たちには想像もつかないようなものを見てきた』っていつも言ってるわ」
その口癖なら僕も耳にタコができるくらい聞いた、とブルーは思った。彼女の祖父が30年以上前に終わった戦争に、一度ばかりか二度までも従軍して、奇跡的に生還したこと、非現実的な体験と引き換えに右足を失ったこと、思い出話ばかりするせいで家族や隣人連中から疎まれていることも知っている。ただ、エイプリルはそんな爺さんのことを本気で尊敬し、そして案じてもいた。
「おじいさま言ってたわ。『あれを見ずに死ぬのは、人生の大いなる損失だ』って。行ってみたいわよねえ」
二人のかけたテーブルの脇を、野良犬が走り去った。それに続いて数人の少年たちがわあわあと駆けて行く。彼らはその毛並みの悪い不幸な犬を捕らえようと、全員で角に追い込んでいる。可哀想な犬は体を震わせて、きゃん、と一声鳴いた。
エイプリルは、見るからに浮かれている様子だった。それもそうだろう、この賑わいの中にあっては、誰もが狂熱に随喜せざるを得ない。万能感に酔っていると言ってもいい。そして彼女も例に漏れず、宴じみたその華やかさに頬を赤らめている一人なのであった。僕だってそうだ、とブルーは思う。だからこそ遠い北の果てにある、千里も離れているような場所に想いを馳せるのだ。どこまでも行ける、何にでもなれる、そんな若者じみた情熱が2人の体内を埋めていた。どうやらエイプリルは、この街に住みたい、いや、この街に店を構えたいとさえ思っているようだった。
しかしそれは――ブルーには、いや、エイプリルさえも、わかっていた。それは無理な話なのである。