この求人、ブラックにつき
誰かが、就活は恋愛と一緒だと言っていた。
互いの条件を擦り合わせ、折り合いをつける。
どんなに振り向いてほしくても、振り向いてくれない相手もいる。
大体が一方通行で、成就しなくて、時には手ひどく傷つけられる。
だけどさ。
ねぇ、ちゃんと、分かってる?
何ごとも一方的になんてありえないって。
笑顔の下で、甘い言葉の裏で、あなたたちが色々なごまかしをしているのと同じように。
こちらだって、その嘘を理解して、見抜いて、時には見下して。
ねぇ、知ってる?
あなた、査定されてますよ?
「で、今度の会社はどうだった?」
電話口で楽しそうに問い掛ける相手に、私は生真面目な求職者の仮面を外して、口元を歪める。
「企業理念とか、諸々の前宣伝からは著しく乖離してるわね」
「うん」
「転職理由をしつこく深掘りして来たから、ちょっと俯いてプルプルしておいたら慌ててた顔が見ものだった」
「さよかー。……お前、大概にしとけよ? いつかやばい奴に目ぇつけられて後ろから刺されるぞ?」
半ば以上呆れたような口調に、お決まりの文句。
形ばかりの心配を、鼻で笑い飛ばす。
「そんなことが心配だったら、こんな稼業やってないわよ」
「ま、それもそうか」
口を動かしながらも、手を休めることなく手に持ったタブレットに査定結果を記入していく。
20XX年。就職戦線はより加熱し、口八丁手八丁でより良い人材を引き当てたい企業と、自分自身を高く売りたい求職者の戦いはより熱気を帯び、新たな職を生み出した。
企業査定調査員。
大手の転職ビジネスを手掛ける企業に所属する者から、民間の調査会社所属の半ばフリーランスな人間まで。
リクルーターとして活動しながら堂々と企業を査定している者から、私のように求職者に紛れて静かに査定を繰り返す者まで。
その活動実態は、実に様々だ。
シュッと画面をフリクションして書類を送信する。
「お、サンキュ。いつもながら仕事が早いね」
「いえ、それほどでも」
私はひと仕事終えたことに満足して、小さく息を吐く。
この瞬間が、一番好きだ。
「あー、この会社、想定以上にヤバそうだね」
「そうね。社長と話してみたけれど、求人票の記載事項と実際のオファー内容に乖離があり過ぎていっそ笑ったわよ」
「そっからかー」
「一応審査項目だから財務状況も軽く探り入れておいたけど、資金の調達状況も恐らくガタガタだと思う。同時開示されている他求人から見ても、この企業相当ブラックだわ」
「うん、確定かな。後はこっちで引き受けるよ、お疲れ」
「はーい、お疲れ様ー」
スマホの通話を切って、縛っていた髪の毛をほどく。
ブラウスのボタンを開け、アクセサリーをつけ、口紅をつけ直せば、印象ががらりと変わるのだから我ながら可笑しなものだと思う。
地味で真面目そうな求職者は、華やかで自信に満ちたキャリアウーマンになる。
服装、装飾、ほんの少しの化粧で。
誰かにとっては劇的な、私にとってはほんの表面づらの些細な変化だ。
人生というのは、化かし合いだ。
印象などというものはあてにならないし、善良さなどというものは時に邪魔になる。
それでも、私は誰かにとっての小さな善意でありたいと思うのは偽善だろうか。
決して答えの返らない問いを、問い続ける。
期待して、裏切られて。
誰かがこの社会に潜む悪意に傷つけられ、すり潰されてしまわないように。
そのためになら、こんな危ない橋も
「多分、悪くない」
ポツリと呟く声に、足を止める人すらいない大都会。
この、冷ややかに冷え切った場所で、それでも私は忘れたくないと思う。
悪夢のような、繰り返される嫌がらせ。
やめていく同僚、増え続ける業務、入院先にまで業務が滞っていると電話してくる上司。
構築しても構築しても崩される、賽の河原の石積みのように終わらない業務改善。
たまりかねてハラスメントを訴え出た社員の、結末。
誰も、守ってなんてくれなかった。
力のない私には、誰も守れなかった。
もう限界だと泣いた後輩を抱きしめて慰めた、涙の温度まで鮮明に覚えている。
噛みしめた唇が切れるなんて、握り込んだ拳に爪が食い込むなんて、文章の中の話だと思っていた。
涙も出ないほど、根こそぎ奪われた。
あの痛みを、悔しさを、やるせなさを。
もうこれ以上、誰にも味わわせないように。
私を立ち上がらせたのは、強い怒りだ。
あるいは煮えたぎるような憎しみで、それは決して美しい感情なんかじゃない。
見方を変えれば、私もこそこそと他者の弱みを嗅ぎ回り、陥れる悪人でしかないのかもしれないと思う。
それでも、間違っているものは間違っているのだ。
「お、仕事早いな」
大手転職ビジネス会社向けの一斉メールに、さっき査定報告を上げたばかりの会社の査定結果が載せられていた。
そのタイトルに、この上ない満足と共に唇を歪める。
「この求人、ブラックにつき至急差し止められたし……か」
身につけたアイオライトのペンダントを、そっと押さえる。
祈るように、願う。
もう会うこともない過去に置いて来た、後悔。
今更この手に、何か意味があるものを掴めるような気など、しないのだけれど。
それでもこの身を削り尽くすだけでも、誰かの笑顔を損なわない未来を得られるのなら。
私には、十分意義のある未来なのだ。
「ねぇ。あなたは今、幸せ?」
自分自身に問うことをやめた問いを思わず、柄にもなく呟いた自分に苦笑する。
感傷を振り払うように足を速めて、私は家路についた。