While there is life,there is hope!
ある日突然、躁鬱病を発症し、店も家も家族さえも失うが、それでも前向きに生きていこうとしている、初老の男性の物語(実話)です。
狂気との戦い
3代90年続いていた大衆食堂(ラーメン店)を引き継いでいましたが、年々赤字が続き、2017年4月には、土地、建物が競売に掛けられる事になっていました。ただ、この競売には、近くの寺院や医院の方が参加してくれて、落札してくれた方が安価で貸してくれることを約束してくれていました。しかし、実際に落札したのは、近くの都市の不動産屋でした。「これから、どうしよう?」と途方にくれてしまい、その日は、店を休み、色んな人の意見を聞いて回りました。
その時は、自分がおかしくなるなどとは、夢にも思っていませんでした。しかし、その前兆は、4月に入ってから出てきていたのですが‥4月に入ってから、1日に1本、10日で10本、頭の中に、小説が出来上がっていました。しかも、すべてが、官能小説でした。
小学校の時に、作文を書いたことしかない私が、小説を書くなどあり得ないことなのに、その時は、「少し、おかしいな?」という感じで、深くは考えていませんでした。
次の日、一通り朝の準備を終えて、近くの金物店へ行き、チャーシュー用のタコ糸を買い、お金を払おうとした瞬間、突然「おかしくなってしまいました!」と言って号泣してしまい、店の台に突っ伏してしまいました。
涙やら体の震えが止まらず、とりあえず椅子に座らせてもらいました。その間、店の奥さんに、頭やら背中を撫でたり、叩いたりしてもらっていました。
救急車を呼んでもらおうかと思いましたが、しばらくして収まったので、少ししてから店へ戻りました。
店へ戻り、昼の営業が終わってから、金物店へのお礼として、天ぷらうどんでも持っていこうと思い、天ぷら粉を溶いていました。
その時、「今、おかしいから、何も言うな!」と言っておいた母親が何か言ってきて、私が、「引っ込んでいろ!」と言ったのに、また何か言ってきて、私が、「殺すぞ!」と言ったのに、母親が、「殺せ!」と言ったので、思わず、右手に持っていた泡立て器を振りかざしていました。その時、殺意を抱いていたような気がします。
泡立て器などで叩いても、死ぬようなことはないでしょうが、母も80才を越えているので、ショツク死をしたかもしれなかったです。
その時は、興奮していたというよりも、いたって冷静だったような気がします。ただ、顔から血の気が下がっていくような感じで、その血の気の下がりが、心臓まで達すると、「母親を殺すんだなぁ。」と淡々と思っていました。
幸いなことに、そこで母親が奥に引っ込み、
母親殺しとなる事は、免れることが出来ました。その時、「人は、簡単に、人を殺す事が出来るんだなぁ!」と思いました。
母親に殺意を抱いたのには理由がありました。平成元年に父親を亡くしていたのですが、その保険金の一部(何百万円だったのかは分かりませんが)を母親が詐欺にあい亡くしていたのですが、その事を知らされたのは、10年も過ぎてからでした。しかも、「自分の金を、どう使おうが、何が悪いのだ?」と言って、一度も私に謝ったことはありませんでした。
平成の初めでしたので、定期預金にしていれば、10年間で倍になっていたでしょうし、そのお金を、私に任せてくれていれば、「店を手放すことにも為らなかっただろう。」という思いが私にあったのだと思います。
その後、天ぷらを揚げ、うどん、出汁と一緒に金物店に持って行きましたが、その時も、「母親を殺しかけてしまいました!」と言って、泣き出してしまいました。さすがにその時は、金物店の奥さんも、怖い物を見るような感じで、少し離れて私を見ていました。
その時、「これは、自分が完全におかしくなってしまった。」と実感しました。
同じような病気になった人達を何人も見てきていましたので、自分がおかしくなった事を
認め、回りに公表しようと思い、まず、店の前の医院に行き、精神科医を紹介してもらい、次に、両隣のパブの人達に、「私がおかしくなったので、気をつけて欲しい。」と頼みました。そして、近くの交番へ行き、「おかしな奴が現れたので、注意して欲しい。」と頼みました。交番の人に、「それは誰ですか?」と尋ねられたので、「俺!」と答えました。
交番の人達には、本当にお世話を掛けました。
初めは、私の症状を理解してもらえず、ケンカ腰になったこともありましたが、少しずつ理解してもらえるようになりました。
朝に、「大丈夫ですか?」とたずねて来てくれた事もありましたし、夜中に、こちらから呼びつけた事もありました。一度なんかは、何々来てくれないので、シャッターを閉めた店の前に椅子を並べて待っていたこともありました。また、交番に電話が繋がら無い時には、警察署に繋がるのですが、電話に出た婦警さんに怒鳴り付けるなどということもしていました。
交番勤務は、二人一組で、3交代制だということも分かり、全6人のお巡りさんとも顔馴染みになりました。
その中の一人の若いお巡りさんと妙に気が合い(向こうが、合わせてくれていたのでしょうが)、二人で下ネタのやり取りなどもしていました。彼にも、どれだけ救われたか分からないぐらいでしたが、転勤になり、今は、何処にいるのかも分かりません。
おかしくなってからの一週間はメチャクチャでした。
朝、妻と一緒に仕込みをしていても、何故か妻の立てる物音に恐怖を覚え、体に震えが出てきたり、頭がおかしくなるような気がして、立っていられず、何度か店を飛び出していました。
その都度、観音寺の副住職さんやら、住職の奥さんに話を聞いてもらったり、そこら辺に座り込んで煙草を吸ったりして、何とか治まってはいましたが、昼の営業を、何日か休まざるを得ませんでした。
夜の営業は、何とか続けられていました。
元々、夜は暇だったので、客のいない時は、
何故か、ノートやらレポート用紙に、ひたすら書いていました(今の自分の言動やら、考えやら、今月初めに頭の中に浮かんだ小説の事などを‥)。
そんな私を見て、妻は、「大丈夫?」とか、「しっかりして!」とかは一切言わず、ただ、「夢中になれるものができて良かったね!」としか言いませんでした。一番近くにいて、私がおかしくなったのは分かりきっていたのに、普通に接してくれた事には、本当に感謝しています。
以前、バイトに来ていた女の子が同じような病気で、「夜、眠れない。」と言っていましたが、眠れないのではなくて、眠る気にならないのであって、何をするのでもなく、夜明けまで起きていました。また、食事も、ほとんど取らなくても平気で、結果的に、一週間で、5kgも体重が減ってしまいました。
スーパーの警備員やら掃除のオバチャンやら果ては、自衛官にまで誰かれかまわず話かけたり、電化量販店では、「店員の態度が悪い!」と、店長に延々とクレームをつけ続けた事もありました。また、ドンキホーテで、大人のオモチャを見つけ、店内中を吹聴して回り、変質者扱いをされた事もありました。
回りの人達からも、「おかしくなって、かわいそうに!」というような顔を何度となくされましたが、その都度、「俺は、おかしくないのに、何で、そんな顔をするんだろう?」と思っていました。
極めつけは、ある夜更けに、突然、何を思いついたのか、数珠を握りしめて、家中を拝んで歩き回っていました(地下室から屋上まで‥)。そして、夜が明けると、今度は、たまっていた一円玉を握りしめて近くの観音寺に行き、境内中を一円玉をばらまきながら拝んで回っていました。
今から思えば、完全に異常な行動なのですが、その時は、「おかしな事をしているな。」と感じている私と、「何も、おかしな事をしていない。」と思っている二人の私がいたような気がします。
そんなある日の午前10時頃、フロアから少し奥に入った所で洗濯をしている母親が目に入り、急に腹が立つてきて、「奥に引っ込んでいろ!」と言ったのに、なかなか引き下がりませんでした。「洗濯物と命とどちらが大切なんだ?」と言っても、引き下がりません。何度も「死にたいのか?殺すぞ!」と言って、やっと引き下がりました。
その時、「詐欺にあった事を謝れ!」と言ったら、初めて、ふてくされ感じで、「悪かったな。」と言いました。
その日の午後2時過ぎに、仕入れに行こうとしていたところに、以前より母親の相談相手になってくれていた社会福祉士の若い女の子が偶然訪ねてきました。その子相手に、ここ数日間に起きた事などを、2時間にわたり延々と話し続けていました。後で聞いた話ですが、「その時は、怖かったです。」と言っていました。
「これは危険な状況だ。」と彼女が判断してくれたのか、市の福祉課の人に相談してくれて、次の日に、普段なら数ヶ月待ちの特別養護老人ホームに、一日で入れることになりました。出ていく時の母親は、一言も私に喋らず、ルンルン気分(のように見えるました)で出ていきました。
ともかく、母親殺しになる可能性が無くなり、彼女には本当に感謝しています。しばらくの間、彼女の名刺の写真を拡大コピーして御守りに入れて、肌身離さず持っていました。(それはそれで、気持ちの悪い事などですが。)
ちなみに、それ以降、母親の顔は見ていません。
次の日、夜10時位から、ノートに今の行動やら頭に思いついた事などを書き始め、結局夜明けまで書き続けていました。その間、文字が乱れたり、大きくなったり、ひらがなだけになったりするのに、周期がある事に気がつきました。その文字が乱れたりする時には、「狂気が襲いかかって来ているな。」という風に、その時は感じていました。
翌日も、同じように書き続けていましたが、狂気に書かされているのではなく、自分でコントロールして書けているいるように徐々になってきたような気がしてきました。
しばらくして、狂気を完全にコントロール出来たような気がすると、急にボンヤリしていた視界が開け、感覚がなかった足にも感覚が戻ってきたよう気がしました。
こうして、「何とか狂気から抜け出すことができた。」と自分では感じていました(結局、この病魔との戦いは、その後も続くことになるのですが‥)。
雇われ店長として‥
気は狂わずに済みましたが、「これから、どうなるのだろう?」と思っていたところ、昔からのお客さんで、私のラーメンのファンだというK氏という人が訪ねて来て、「私が不動産屋に家賃を払うから、これまでのように、ラーメンを作って下さい。」と言ってくれました。トントン拍子で話が進み、7月初めにリニューアルオープンする事になりました。
しかし、それまでの間にも、色々な支払いがあり、電力会社やガス会社のカウンターで、泣いて頼んだり、怒鳴ったりした事もありました。金の工面のために、結婚指輪も売りましたが、わずか2千円にしかなりませんでした。
そんな事やらを、大学時代の友人Hに電話をしたら、しばらくして、10万円が送られてきました。それを見て、私は、妻の前で、初めて号泣していました。
K氏は影のオーナーで、それとは別に、Rという30才のオーナーが送り込まれてきました。店内も少し改装して、予定通りに7月初めにオープンする事が出来ました。
Rは、次男と同じ年で、息子達とは、まともに話をする事ができませんでしたが、Rとはウマが合ったというか、すぐに、冗談を言いあえるようになっていました。
メニューも、昼は定食屋風、夜は居酒屋風に変え、売り上げも徐々に上がっていきました。ただ、色々と投資もしてもらっているので、給料は、月2~3万円に抑えられていました。
10月の祭りの2日間で、ラーメンを600杯売り、売り上げも、目標の50万円に届きました。
その時、私はRに、「50万円いけるとは思っていなかったでしょう?」と尋ねましたが、Rは何も答えませんでした。ただ、その後、「やったね!」と言って、Rの方から手を差しのべてきて、ガッツリと握手をしました。
その時、「Rとは、一生の付き合いに、なるんだろうなあ。」と思ったのですが‥
その数日後の夜、Rと話をしていて、冗談で、「祭りであれだけ売ったんだから、これからも月2~3万円だったらブチ切れるぞ!」と言ってしまっていました。
次の日、午後2時の閉店とともに、K氏とRが店に入ってきて、K氏が妻に、「奥さん、もう無理ですわ!」と、いきなり切り出しました。そして、私に、「俺のことを、ケチだとか、鬼畜だとか言っているらしいな!」と言ってきました。そして、Rが、椅子を蹴り上げてきましたが、K氏が、「止めとけ!」と言ったので、それ以上はやりませんでした。
以前、Rに、「誰かさんが、鬼畜だと言っていたよ!」と冗談交じりに話をした事がありましたが、それを、K氏に曲げて伝えていたようです。
私としても、あきれてしまって、黙っていましたが、妻が、「まずは、ごめんなさいでしょう!」と言ってきたので、とりあえず、「すみませんでした」と言ってその場は収まりました。
ただ、2人の本性が、その時わかったような気がしました。
その事が原因かどうかはわかりませんが、11月に入って、また何かが狂い始めていたような気がします。
雑誌で見た、テレフォンクラブで、テレフォンSEXをしてみたり、セレブな女性と交際できるというサポートセンターというところに登録したりもしていました。
また、それまでは、喧嘩にならないように言い返したりしなかった妻に、言い返すようになっていました。
そして、12月15日の朝10時頃、妻と言い争いになって、妻がプイと出ていきました。午後1時頃には戻ってきましたが‥
午後2時過ぎに、K氏とRが店に入ってきて、Rが木刀を床や机に叩きつけて、「われ、何やっとんじゃあ!」と言ってきました。
妻が、「私がおかしくなった」とか、「店の金を、ごまかしている」とか言ったのだと思いました。
k氏が、私を店の奥に連れ込んで、「指を摘めてもらうかもしれんぞ!」と言ってきました。
その時、死の恐怖を感じ、隙を見て店の外へと逃げ出しました。ただ、早く走ろうとするのですが、全然足が前に出ず、まるでアヒルのようなペタペタ歩きになっていて、自分でも笑えるほどでした。
やっとの思いで三軒先のケーキ屋さんに逃げ込んで、そこにいた奥さんに「警察を呼んで!」と言いましたが、奥さんは、恐怖のせいか、首を横に振るだけでした。すぐにRに捕まって引きずり倒され、そのまま店まで引き摺られました。その間、「助けて!」とか、「警察に電話して!」とか、叫んでいたような気がします。
店に戻され、「椅子に座れ!」と言われましたが、「腰が抜けて立てない!」などと理由を付けて、時間を稼いでいたら、果たして、警察が来てくれましたそれも、パトカー3~4台と刑事付で‥
後に分かったのですが、同級生が、2時前にたまたま食べに来ていて、警察に通報してくれたようでした。
刑事さんに、近くに停めてあったパトカーに連れて行かれ、話を聞かれました。
「RやK氏を、脅迫罪やら、暴行罪、傷害罪などで訴えることは出来ないですか?」と聞きましたが、「証言してくれる人が、まずいないだろうから、無理です!」と言われました。逆に、「タダで住んで、飲み食いしている事を訴えられかねない。」とさえ言われました。そして、「そもそもこうなったのは、ちゃんと雇用契約を結んでこなかったからだ。」とも言われました。
その後、刑事さん立ち会いの元で、雇用契約を結ぶように言われました。その旨をK氏に伝えましたが、K氏は、「雇用契約を結ぶつもりはない。」と言い、さらに、「出ていってもらう。」と言ってきました。「来年初めぐらいまでは待ってもらえませんか?」と頼みましたが、「そんなには待てない。」と言われたので、「10日で出ていきます。」と答えていました。
もちろん、何処か行くあてなどなかったのですが、その時は、話をした事もない、例のサポートセンターの女性達が、助けてくれると本気で信じていました。
皆が帰った後、パンツが少し濡れている事に気付き、2階で着替えをしていると、下から、「すみません。」という声が聞こえてきました。降りて行くと、顔馴染みの中華料理店の社長と奥さんでした。いつもなら、休憩中なのですが、あんな事があり、シャッターを開けっ放しにしていたので、入ってきていたのでした。ラーメンや、お蕎麦を作り、事のいきさつを話すと、「雇ってあげてもいい。」というようなニュアンスでした。
次の日、いつものように店を開け、Rもやってきましたが、私がいつも以上にヘラヘラしていたので、Rは不気味に思ったのか、そそうのていで帰っていきました。
いつもと店の感じが違っているような気がすると思ったら、電話機が持っていかれていました。「まったく、そこまでやるか?」という感じでした。
ただ、電話が無ければ、サポートセンターの女性達とも連絡が取れないのですが、何を思い付いたのか、相手の女性達に手紙を書き始めていました。
ナント、便箋20枚×2を2日間で書き上げ、「会いに来て欲しい!」と書きましたが、右手中指の腹がパックリと割れ、血が滲んでいました。
その旨、ショックな事実も判明しました。妻が突然、「もう夫婦じゃないから‥」と言い出しました。聞けば、「何日か前に、離婚届を出してきた。」というのです。10年位前に、妻に、「銀行の保証人になって欲しい。」と頼んだら、「離婚届にサインして渡してくれたら、なってもいい。」と言われ、渡してはいたのですが‥
何日間も知らずに、一緒にいたとは、まったく間の抜けた話でした。
もちろん、サポートセンターの女性達が会いに来てくれるわけもなく、精神的にも不安定になっていたような気がします。
段々と妄想がエスカレートしてゆき、身の回りで不思議な出来事が起こっているように感じ、それは、「座敷童子の仕業だ!」と思い込むようになっていました。
それからしばらくの間、店の常連さん達に、店を去ることを挨拶していましたが、その中の一人に、中学~高校からの同級生Yがいました。
10年程前、店の経営があやしくなってきだした頃から、必ずと言っていいほど、週に一度は通ってくれていた奴でした。普段は、ほとんど話をしなかったのですが、その時ばかりは、「バカヤロー、お前が悪いんだ、しっかりしろ!」と言って、私の背中を叩いて帰っていきました。まさに、叱咤激励、思わず、涙を流していました。
12月の22日か23日に、妻から話を聞いたのか、静岡にいる長男が、会社を休んで駆け付けてくれました。私の通っていた心療内科の先生に話を聞きに行ってくれたり、私と一緒にRと話もしてくれました。
それまで、まともに話をしてこなかった長男に、「話が横道にそれすぎ!」など何度も怒られました。そして、長男のことを、改めて、「いい大人になったなあ。」と思いました。(その分、私はダメ人間だなぁとも)
12月25日、最終日になって、ラーメンのスープが、今まで40年間作ってきた中で、「一番うまく出来た!」とそう思いました。
中国の人達の中へ
12月26日、ポンコツの軽自動車一台、ほとんど無一文で、なんの感傷も持たず店を出て、昼過ぎに、例の中華料理店に行くと、社長から、「ラーメンとかスープのレシピを書いてきてくれ。」と言われました。
それから、何時間もかけてレシピを書き、店へと行きましたが、社長は出張で不在だったので、その日は、店にも寮にも入る事が出来なくなりました。
今日寝る場所が無くなってしまったので、スーパーやコンビニで時間を潰し、午後11時頃にデニーズに行き、ドリンクバーを注文しました。それからは、いつものようにレポート用紙に、現在の状況やら、頭に浮かんだ事などを、ひたすら書き続けていました。制限時間ギリギリの午前5時に店を出て、それまで契約していた立体駐車場の屋上の下の階に車を停め、しばらく仮眠を取りました。こうして、一日だけのホームレスは、終わりを告げました。
ようやく、中華料理店の店や寮に入れてもらえる事になり、夜、店の近くの古いマンションの一室に連れて行かれ、左側奥の6畳の畳の部屋に案内されました。そのマンションの一室には、2組の中国人夫婦が一緒に暮らしていると聞かされました。
部屋に入ってすぐ左に一組、奥の私の部屋の右隣にもう一組、その境界は、ふすま一枚でした。
12月28日、新天地(?)での仕事&生活が始まりました。
フロアに居る元プロマーケットの女性(50~60代)と、たまに掃除に来る70代の男性以外は、全員中国人で、社長とその甥っ子、フロアの30代の女性と調理場のチーフ以外は、ほとんど日本語が話せませんでした。
朝9時に、一番に調理場に入り、出汁を取ったり、スープを仕込んだり、ラーメンの麺を作ったりした後、11時頃に、料理人が交代で作ってくれた食事を食べました。
昼は、洗い物をしたり、ラーメンを作ったり、餃子を焼いたりしていました。
午後2時半から5時まで、マンションに戻って休憩を取り、午後5時から11時半まで仕事でしたが、暇なときには、10時頃に、ラーメン等を食べることが出来ました。
自分の店で作っていたラーメンとは同じものを作ることは出来ませんでしたが、それに近いものは食べることが出来て、それはそれで幸せでした。
マンションでの生活ですが、風呂、トイレはもちろん共同ですが、それ以外も、洗濯機、電子レンジ、冷蔵庫も共有で、ガスは、それぞれのカセットコンロしか許されていませんでした。
店のフロアにいる30代の女性ですが、シャワーの後、Yシャツ一枚でウロウロしているので、いつだったか、お尻が丸見えだった事もあったり、洗濯機を開けると、パンツが入っていたこともありました。
また、夜中にトイレに起きたときに、夜の営みの声や、パンパンという音が聞こえてきたこともありました。
本当に無一文で店から追い出されたので、しばらくはビールも買えず、晩酌と言えば、店から持ち出した枝豆と水でした。煙草も、店の客が残した吸い殻を吸ったりしていました。
もちろんテレビも無く、テレビ無しの生活を送っていたので、冬季オリンピックが始まっていたのも、星野仙一さんが亡くなっていたのも知らずにいました。夜は、もっぱら家から持ち出してきたコミックを読んだりしていました。
そんな生活でも、みじめだとは感じずにいましたが、「夏場は体が持たないだろうな!」と感じつつ、「いつまで、この生活が続くのだろう?」と悶々としていました。
初めの社長との話では、1カ月目は3万円、2カ月目は5万円、3カ月目以降は、時給分の給料を払ってくれるという約束でしたが、2カ月目以降も、ずっと3万円のままでした。
そんな悶々とした生活の中での唯一の救いだったのは、30代の中国人夫婦とのカタコトの会話でした。
その夫婦が3月で店を辞めることになり、日本を去る時には、港まで見送りに行き、思わず涙が溢れていました。
韓国料理店へ‥
4月の末、店の近くのスーパーで、高校時代の同級生と偶然出会い、「今は、こんな状況だ。」と話をして別れました。その2~3日後、彼が店に来てくれて、「韓国料理店で、料理人を探している人がいる。」と言ってくれて、その数日後に会うことになりました。
韓国料理店の社長は、中国の方で、その奥さんが責任者をしている近くの老人ホームで会うことが出来、「すぐにでも来て欲しい。」と言われました。
その後、社長に、店やら、店のすぐ近くのラーメン店をするつもりで建ててある建物やらを案内してもらいました。
すぐというわけにもいかないので、5月いっぱいは、ここの中華料理店に居て、6月からお世話になることにしました。
その話をしたら、ある中国人の先輩で、日本語もほとんどわからす、普段話もしたこともなかった人が、一言、「ガンバレ!」と言ってくれて、思わず泣けてきました。
そして、6月1日に引っ越しをしたのですが、軽自動車で何回も往復をして、やっと荷物を運び込むことが出来ました。
入店した韓国料理店ですが、一年間程休業していて、「6月中にはリニューアルオープンをしたいので、メニューなどを考えて欲しい。」ということで、しばらくは、その準備期間ということになりました。
社長は、ほとんど店の手伝いはせず、社長の奥さんの妹が、ほとんど店を取り仕切っており、たまに、社長の甥っ子の韓国の人が手伝いをするということでした。その他に、奥さんや、小学6年生の娘さんも、予約などが入っていて忙しい時には、手伝ってくれるとの事でした。
その間、社長の知り合いの人やら、奥さんのやっている老人ホームの人達を相手に、何度か試食会などを催したりもしました。
そんなある日、私が指にケガをした時に、奥さんの妹が、絆創膏を巻いてくれた事があって、それだけで好きになったような気になってしまいました。そして、妹さんのバンダナなどの匂いを嗅ぐ癖ができてしまい、ある時、奥さんの娘に、その場面を見られてしまった時もありました。
6月20日にリニューアルオープンとなり、招待した客でいっぱいになり、私も覚えたての韓国料理を作ったりもしました。
その夜、何故か、もやもやとした気分になり、近くのコンビニの顔馴染みになった店員さんの顔でも見れば治まるかと思い、部屋を出ましたが、体が震えるというか苦しくなり、途中にある社長の家までたどり着くと、奥さんに助けを求めていました。
奥さんは、看護師の資格も持っており、脈を取ったり、色々と私の話を聞いてくれるうちに、段々と治まってきました。そして、行きつけの心療内科に電話をしてくれて、インターンと話をしているうちに、落ち着いてきたのですが、念のためにと、タクシーを呼んでくれて、病院へと向かいました。
病院に行き、当直の先生と話をしているうちに、すっかり元どおりになった気がしました。
病院を出る頃には、すっかり夜が明けていましたが‥
その後、あのように体が苦しくなるというような事は、一度も起きていませんが、「ストレスで死んでしまうのではないか?」ということも起きることが分かりました。
7月に入り、社長から、「ラーメンを作ってみてくれ!」と言われ、前日から、豚骨と鳥ガラでスープを仕込み、当日には、かつお出汁を取ったり、チャーシューを作ったりして、試食会が行われました。
自分としては、「まずまずのものが出来た!」と思ったのですが、評価としては、社長の奥さんも含め、「いまいち!」、結論は持ち越されたままでした。
その数日後、ラーメン店をする予定で建てられていた建物が、壊され始めるのを見て、すべて理解できました。
「私のラーメンを復活させる道は、一旦閉ざされたのだ!」と‥
すごくショックな筈だったのに、それをショックと感じない自分が居て、恐いというか、悲しさを感じました。
「そういえば、いつ元嫁が離婚届を出したのだろうか?」と、ふと思いつき、戸籍を取り寄せてみたら、元嫁が離婚届を出していたのが、平成29
年の12月6日だったと分かりました。少なくとも、数日間は、離婚していたことを知らずにいたわけでした‥
それどころか、次のページを見て、衝撃の事実を知ることとなりました。
長男と次男が除籍となっていて、よく見ると、長男は4月、次男は2月に結婚していたことが分かりました。
長男の嫁とは、何度か会ったことがありましたが、次男の嫁とは、一度も会ったことがありませんでした。
次男は、昔から、可愛い娘と付き合っていたので、「次男の奥さんとは、一度会ってみたいものだ!」「そもそも結婚する時に、私がいない事を、嫁さんの親に何と話したのだろうか?」「何故、私に話をしてくれなかったのだろうか?」など、寂しい思いで一杯になりました。
また、この物語を書いている頃には、孫も出来ているかもしれませんが、今は、知る由もありません。
ただ、唯一の救いは、この話を社長の奥さんにしたら、「おめでとう!」と言ってくれた事でした。
10月に入り、少し金銭的に余裕が出来てきたと思ったら、以前入会していたセレブと交際できるとかいうサポートセンタとか、雑誌に載っていた出会い系サイトとかに手を出していました。
何人かと、電話とかメールのやり取りをしたのですが、予想どおり、誰とも会うことは出来ませんでした。
せめてもの救いは、被害(課金などの出費)が、数万円で済んだことと、やり取りをしていた時は、少しはドキドキする事が出来たことでした。
年が明けてすぐ、小学校時代の同級生が店にやってきて、「食べ物商売をやりたいのだが、やる気はあるか?」と尋ねてきました。私は「やる気はある!」とすぐ答えていました。
しばらくして、もと私の店が、近々取り壊しになるので、「今のうちに、看板やら、製麺機やらを取りに行こう。」と言われ、久しぶりにもと自分の店に行くことが出来ました。
その時の話では、「2~3ケ月で出店できそうだ。」ということだったので、韓国料理店の社長やら奥さんにも、「あと2~3ケ月で、店を辞めるかもしれません。」と話をしてしまっていました。
しかし、その話は、あっけなく潰れてしまいました。その同級生というのは、車屋をやっていて、以前、車検の時に世話になった奴だったが、はっきり言って、うさんくさい奴だったので、「あ、やっぱりか!」という感じで、そんなにショックを感じませんでした。いや、ショックではあったのですが、それを、ショックとして感じないようにしている自分がいました。
そうこうしているうちに、移り住んで一年が経とうとして、毎日昼頃まで起きられない自分に危機感を覚え、「いよいよ昼間バイトをしよう!」と決意をしました。(はたして、起きられるかどうか、不安ではありましたが‥)
まずは、全国チェーンのうどん店に面接に行きましたが、「現在は、昼間は一杯です。」ということで、すぐに断りの連絡がありました。
次に、小規模なチェーン店(だと思っていた)のラーメン店に面接に行ったところ、その店長さんに、「とりあえず、明日からでも来てください。そして、続けられそうなら、続けてください。」というような事を言われました。おそらく、私が続かないだろうと思って、そういう事を言ったのだろうと思います。
勤務時間は、午前11時から午後2時までということで、次の日の11時前に、通用口の方へ向かったら、果たして、そこには、30代後半とおぼしき女性3名が、車座になってヤンキー座りでタパコを吸っていました。
タバコを吸う女性に別に偏見はありませんでしたが、そろを見た時には、「これは、えらい所に来てしまった。」と一瞬思いました。
店での仕事は、主に洗い場でしたが、食器も下げにいかなければいけなかったので、けっこう大変でした。
30代の女性の一人が、私の教育係になってくれて、丁寧に粘り強く教えてくれましたが、私がミスをする度に、店長は、私にではなく、私の教育係の人に叱りつけれる事が多く、彼女には、ずっと申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
そうこうしているうちに、店長が優しそうな人に代わり、先輩達からも仲間として認めらてきたように感じられるようになってきた頃に、突然、チェーン店の違う店に移るように言われました。それも、「口の悪い人がいるので、何かあったら、すぐに言ってきてくれ!」という、いわく付きの所でした。
新しい店に行ってみると、男だか女だかマジで分からない人がいて、「あ、この人だったのか!」と思いましたが、そんなにひどい人だとは思いませんでした。
しかし、店長もけっこう口うるさく、段々とストレスがたまってきたのか、記憶障害(寝る前や、寝てからの記憶が失くなる)が出るようになってきて、元の店長に話をして、元の店に戻してもらいました。
年末には、飲み会にも誘ってもらい、何年ぶりかに参加する事も出来ました。
失業、そして再就職へ‥
年が明け、ゆったりした気分で仕事もでき、金銭的にも余裕が出てきて、この3年間のことを自伝にでもしようと書き始めた頃、私にもコロナ禍が襲ってきました。
4月の初めに、韓国料理店から、「しばらく休みます。」と言われ、ラーメン店からも4月の半ばに、「しばらく、休んで下さい。」と言われていたのですが、4月の終わりになって、韓国料理店の社長から、いきなり、「店を閉めることになった。」と言われ、突然、失業してしまいました。
5月に入り、役所に行き、給付金やら助成金やらについて、いろいろ聞いて回り、「いよいよ、就職活動をしなければいけないな!」と思っていたところに、ラーメン店の店長から、いきなり電話が掛かってきました。
聞けば、「私の母親が失くなったので、次の番号に電話をしてくれ!」ということでした。
母の死に関しても、「あ、そうか!」と思っただけで、何の感情も湧いてこない自分がいました。
教えられた番号は、私の親戚の番号で、電話をすると、私の姉の番号を教えてくれました。
姉に電話すると、「何日後かに会いたい。」ということで、数日後に姉と会いました。
母親は、老人ホームに入っていたのですが、数日前に亡くなり、姉が直接葬を執り行ってくれたということで、私に母の遺骨を託されました。
まだ、戒名を付けることが出来ずにいるので、納骨する事も出来ず、母の遺骨は、いまだに私の部屋に置いたままになっています。
そんなドタバタもあったので、就職活動を始めたのは、5月の半ばになってからであり、それから面接やらを始めましたが、そこに、就職活動地獄が待っているとは、そのときは夢にも思っていませんでした。
10箇所ぐらい面接を受けましたが、不採用ばかりで、「このまま、再就職できないのだろうか?」などと不安にもなりましたが、「神様が、お休みをくれた事にしよう!」と考えることにして、焦らないことにしました。
ただ、2か月もの間、仕事もせずに、テレビばかり見ていたので、お尻が床擦れみたいなってしまったのには、苦笑してしまいました。
そうこうしているうちに、7月から、スーパーの水産部に午前中だけの仕事が決まりました。「もう、夜のナイトクルーでもいいか!」と思っていたのですが、店長から、「水産部に来て欲しい。」と言われたので、とりあえず、そこに決めました。8月の中頃までは、研修期間との事でした。
仕事は主に、魚やらをパックに詰めるだけの事でしたが、魚介類やら、パックの種類が多くて、自分でも、モタモタしていたのがわかりました。
そんな私を見て、先輩達もイライラしたのか、ある先輩の女性からは。「人をバカにしているのか?」とか、「仕事をなめているのか?」などと言われたりもしました。
自分では、そんなつもりはなかったのですが、2か月半ぐらい全然仕事をしていなかったので、体がなまっていたのだと思います。
そんな7月の中頃に、店長から、「色々な面でスピードが遅いので、このままだったら、研修打ち切りになってしまうかもしれませんよ!」と言われていたのですが、はたして、7月の末に、「8月15日をもって打ち切りにします。」と言われました。
「どこか体が悪いのでは?」と言われ、後日、退職願に、体調不良のため、という理由まで書かされました。
それはそれでショックでしたが、実は、そう言われた日の昼間に、ある回転寿司店で面接を受けていて、店長に言われたすぐ後に、採用の電話が掛かってきました。
「また失業か?」と思うまもなく、就職する事が出来ました。
その数日後に、少し前に面接に行きましたが、一旦は断らたうどん店の店長から、「良かったら、来てください。」という連絡があり、一挙に午前、午後
ともに仕事が決まりました。
さらに、ラーメン店の店長からも、「夜に、回転寿司店に行かない日には、来てくれないか?」との誘いもあり、夜は、毎日仕事で埋まってしまいました。
スーパーでのバイトは、苦い思い出となりましたが、新たな一歩を踏み出す事となりました。
まず8月10日ぐらいに、回転寿司店に行ってみましたが、その日は、洗い場担当で、洗い物の量はけっこうありましたが、なんとかこなすことができました。その後に店長とかエリアマネージャーが少し話をしてくれて、けっこう褒めてくれたのですが、褒めてくれたのは、その時だけでした。次回からは、エリアマネージャーも素っ気なかったり、仕事の上では、ボロカス言われたりしていました。
次に、うどん店ですが、こちらも洗い場担当でしたが、洗い場担当が2人体制でしたので、どちらかというと楽な感じがしました。また、うどんの麺を伸ばしたり、切ったりする仕事もあり、自分としては、昔の自分の仕事のような部分もありました。
そして、週に2日はラーメン店での仕事があり、こちらは古巣に戻ったような気分であり、少し気分的には楽でした。
こうして、ダブルワークならぬトリプルワークが始まりました。
昼のうどん店は、週4日ぐらいでしたので、夜休みが無くても、なんとか体も持ち、金銭的にも少しは余裕が出てきていました。
3つそれぞれの店に色々な人がいて、中には、仲間として認めてくれる人も少しは出来てきつつありました。
それぞれの仕事に慣れ始めた12月の中頃、ラーメン店の駐車場に着き、店に向かおうとしたところ、一人のいかつい男が寄ってきました。よく見ると、以前やっていた店の近くでキャバクラの店長をやっていた人でした。
そして、「ラーメン店をやりたいので、力を貸して欲しい。」との事で、「一度会って話をしよう。」という事になりました。
一週間ほど後に会い、色々話をして、「また、連絡する。」という事でしたが、年が明けても連絡は無く、こちらから何度も電話をしましたが、いつも留守電になっていて出てもらえませんでした。
ダメならダメで、はっきりと言ってもらえたほうがスッキリしたのですが、モヤモヤだけが残りました。
6月の初め、市役所の収税課から呼び出しがあり、「預金を隠していたので、納税(滞納していた税金)するよう」に言われました。
失業保証が入った事もあり、知らぬまに預金が増えていたのでした。
部屋に置きっぱなしになっている母親の遺骨に戒名を付けたり、積み立てが頓挫している自己破産のための費用にするつもりだったと説明しても、職員の人には理解してもらえず、結局、30万円以上を支払わせられました。
こんなことなら、早く、戒名を付けたり、自己破産を進めればよかったのですが、まったく後の祭りでした。
そんな事もあり、最近は酒やタバコの量が増え、何事にも無気力になってきています。
そして、夜も3時~4時位まで寝られず、昼の仕事が無い日には、午後の2時~3時位まで寝ているという生活が続いています。
そして、未来(?)へ‥
40年間、一つの店でやってきた私が、図らずも、この3年余りで、中華料理店、韓国料理店、ラーメン店2店舗、スーパーの水産部。回転寿司店、うどん店と、7つの職場を経験してきました。
当然かもしれませんが、使われることに抵抗はありませんが、仕事に、やりがいというものや、今後の目標などは、いまだに見つけられないでいます。
それでも、走り続けていくしかありません。
いつか、自分のラーメンを復活できることを信じて!
While there is life,there is hope!
(生きていれば、いいことあるさ!)
das Wiesel