第七話
グゲェエエエェッ!!
鐘の音とともに、耳を劈くけたたましい鳴き声がした。それは喉を締め上げられた生き物がなおも発声しようともがくような、聞くに堪えないものだった。
上空から聞こえたそれに目を向けると、太陽を遮る黒い羽ばたきが見えた。
「あれは……!?」
「――"魔物の先触れ"だ」
「え?」
ロズが忌々しそうに言った時、その異形はエレシアの元へと真っ直ぐに降りてきた。
体長は鳩より一回り大きい程度。だがその羽は人の両腕を広げたほどもある。拗じくれた首に癒着した頭から覗く濁った眼がエレシアを見て、その鋭い鉤爪を構えた。
「下がれ!」
鉤爪がエレシアに翳される――その前に、鳥型の異形はロズの剣によって切り落とされた。
黒い身体は地面に転がると、しばらく痙攣してやがて動かなくなった。頭部はなんと恐るべきことに、ケタケタと耳障りな鳴き声をなおも発し、ロズがとどめを刺すとどろりと溶けて形を失った。
「ま、魔物」
エレシアの声が震える。
エンドニドル砦で魔物を間近で見るのはこれが初めてだった。
「そうだ。怪我はないか」
「だ、大丈夫、ですわ」
あまりにも目前まで迫られたために、腰は抜けたが。
エレシアは手近にあった鍬を杖にしてよろよろと立ち上がった。
ロズは魔物が残した、影のように黒い染みを睨んで言った。
「先触れか……厄介な魔物が現れたな」
「魔物に厄介なものとそうじゃないものがいますの?」
「いる。特にこいつらは鳴き声でより強い魔物を呼ぶんだ。早々に始末してしまわないとまずい」
「え、でも今ロズ様が倒したのでは……」
「こいつ"ら"だと言っただろう。先触れが現れる時は――必ず群れだ」
ロズの言葉に恐る恐る空を仰ぎ見ると、歪な鳥が砦の上空で群がっていた。耳を塞ぎたくなるような不協和音がそこらかしこに響いている。
「いつの間に!? というか、めちゃくちゃ数が多くはございませんこと!?」
「以前言っただろう。魔物の数が増えていると。これほどの数は俺も初めてだが」
「そんな……!」
絶句するエレシアに対し、ロズは冷静だった。
「お前は砦の中に入っていろ」
「大丈夫なんですの!?」
「先触れ自体はさほど強くない。それに、誰かさんの食事のおかげで兵士たちは元気いっぱいだ。なんとかなるだろう」
ロズの言う通り、菜園を出るとすでに砦の兵士たちは各々が武器を取り、防壁の歩廊や平地で見事な技量によって先触れを仕留めていた。
その中には、エレシアの体調を心配してくれた中年兵士の姿も見えた。
「おっ、団長お疲れ様です! エレシア嬢! 体の調子は良くなったか? ここは危ないから中に入っとけよ!」
中年兵士は武器で攻撃をいなしつつ、エレシアに声をかける余裕すらある。
これならば問題ないだろうと安心した矢先、その背後を一体の先触れが襲いかかろうとしていた。
「危ない!」
と、エレシアは持っていた鍬を振りかぶって――投げた。
鍬は見事先触れに的中し、中年兵士に届くことなく落下。そして最後、鍬を拾い直したエレシアによって首を耕されて地に還った。
流れるような耕起に、農作業に勤しむ父母の姿を幻視した中年兵士は、あんぐりと口を開けた。
「……おい」
「ご心配なくロズ様。わたくし家畜の屠殺を経験したことがございますの。血生臭いことには慣れていますわ」
「魔物と家畜を一緒にするな」
「これでも王宮の剣術大会で、良い所までいったこともあるんですの。鍬で一緒に戦えますわよ?」
「鍬を剣と一緒にするな……! だいたい、貴族の大会など剣筋よりも顔色を読んでの勝負だろうが。あてにならん」
「ふふっ」
「……何がおかしい?」
「いえ、たしかに王宮の剣術大会は一から十まで決められていたなと思い出しまして」
貴族の貴族による貴族の為の大会。第二王子はいつも参加せず、だから決まってルフランが一位だった。たとえエレシアですら勝てそうな拙い剣筋であってもだ。
本当に勝ってしまうとルフランの機嫌は地に落ち、最悪王子としての責務すら放棄しかねなかったので、それだけは避けていたが。
「どうした?」
「いえ、懐かしいことを思い出していました。……たしかにわたくしごときの技量では、皆様の邪魔をするだけですわね。おとなしく後方で他の方のお手伝いをすることにします」
「そうしてくれ」
兵士に混じって戦うのを諦めたエレシアに、ロズはほっとしたようだ。
「……まあ、なんだ。剣の巧拙はわからないが、鍬の投擲精度は見事だった」
「あら、ありがとうございます。わたくし、剣術大会に鍬で参加できていれば優勝間違いなしだったと思いますわ」
「それは……負けたやつらの精神状態が心配になるな……」
「ちょっと団長ー!? 談笑してないで手伝ってくださいよぉー!」
「まだまだいるんですからねぇー!」我に返った中年兵士の切実な声を聞き、エレシアとロズはお互いにいるべき場所へと向かった。
先触れをすべて倒しきるには時間がかかった。
幸い新たな魔物が現れることはなかったが、なにぶん数が多かったので砦内の疲労は濃かった。軽傷とはいえ怪我人もおり、砦の一部が壊れた場所もある。
エレシアはトッドや他の後衛部隊とともに復旧に奔走し、ようやく落ち着いたのが日の暮れる夕方頃だった。
「……あ、」
人の行き来も少なくなった軍事拠点の訓練場で、エレシアはロズを見つけた。
彼も戦闘に参加していたはずだ。だというのに装備に汚れ一つないところを見ると、ロズは団長を務めるに相応しい実力を有しているのだとわかる。
考え事をしているのかじっと黙っていて、気軽には声をかけにくい雰囲気が漂っている。
加えてエレシアは鐘が鳴る前のロズとのやりとりを思い出し、なおさら声がかけづらかった――けれど。
「ロズ様」
「ああ、お前か。怪我はないか?」
思い切って名前を呼ぶと、ロズは思いの外穏やかな声音とともにエレシアを振り返った。
安心したような、残念なような気がしつつ、エレシアはロズのそばに寄る。
「ご心配痛み入りますわ。この通りぴんぴんしております。ロズ様もお怪我がないようでなによりですわ」
「まあな。だが、部下に怪我人が出たのは悔やまれる。あの数だから、多少は仕方ないが」
「たしかに数は多かったですが、皆様がそこまで苦戦している様子は見受けられなかったのですけど……」
「ああそれは、」
息を吐いて、ロズは足元に視線を落とした。エレシアも倣うと、そこには刀身が根本から折れた剣が転がっていた。よくよく見ると酷い刃こぼれがある。柄の部分にも補修の跡が見られ、元から相当使い込まれていたものだと思われる。これを戦闘中に使用していたというのならば、よくぞ魔物を退けたと感心せざるをえない。
エレシアがまじまじと見つめていると、ロズは苦労の色が滲んだような声で言った。
「物資が足りていないんだ。剣に限らず、防具や治療品、その他諸々がな」
「それは……王宮からの物資の支援が滞っているせいでしょうか」
「なんだ、知っていたのか。まあ後方で働いていれば気づかないわけがないな」
「ええ」
ロズの言葉に、エレシアは小さく頷いた。食糧庫の有り様を見た時に、もしやとは思っていた。
エンドニドル砦は魔物だけでなく、隣国バルガンと接する国防の要だ。物資も人も潤沢で当たり前、不足などあってはならない。
ヴィジービーズ領もエンドニドル砦に送る食糧だけは随時一定量を確保している。定期的に輸送し、急ぎであれば最優先で手配する。そしてその采配は王宮を介してなされるのだが。
「お前が来る――二月ほど前だったか、その頃から物資が届かなくなった。不足分は商隊から補ってはいたが、うちは僻地な上に魔物が出る危険地帯だ。頼んでも来るやつは少ないし、その分値段もふっかけてくる。長期的には愚策だ。だから、物資を送れと再三王宮に要請しているんだが」
「あの……差し出がましいようですが、エンドニドル辺境伯はこの事態を把握していらっしゃいますの?」
キルギーリス王国において、国境を領地に含む領主は辺境伯と呼ばれ、侯爵家と同等かそれ以上の強い権力を有している。
隣国バルガンと接するエンドニドル領はたしか、シェロブルム家という貴族が代々管理を任されていたはずだ。
砦の運用も本来はシェロブルム家の当主――つまりはエンドニドル辺境伯が務めるべき仕事の一つ。
だが、辺境伯が砦の運用に携わっている気配をエレシアはこれまで感じたことがなかった。
エレシアの疑問に、ロズが吐き捨てるように答えた。
「把握はしているな。だが、エンドニドル辺境伯はお前の父親であるヴィジビーズ侯爵と違って無能だ。辺境伯の肩書きがあっても何も解決できないでいる。数十年前に起きた戦争によって疲弊した領都の復興すら、未だできないでいるんだ。そのせいでエンドニドル領は万年貧乏、王宮から物資を支援してもらっているのはそれが主な原因だ」
「その頼みの綱の物資が打ち切られたのは、かなり苦しいですわね。……ですが、そこまで困窮している事実があるのなら、貴族の間で噂になってもおかしくはないのですけど……」
実際のところ、これまでにそういった話をエレシアが聞いたことはない。
「王宮はこのことを隠したいのだろうな。なにせ急使を送っても門前払いされている」
書簡では何か滞りがあるのかと、急使を向かわせたことがある。しかし王宮の門番は急使をけんもほろろにを追い払い、その理由を尋ねると「王の命令だ」と言ったのだ、とロズは語る。
つまりエンドニドル砦の訴えは、故意になかったことにされている。
「このままでは近い内に崩壊する。エンドニドル砦がなくなれば、魔物が、あるいは隣国がキルギーリス王国を蹂躙する。それがまさかわからないのか?」
「王宮が何を思って支援を切ったのかはわかりません。ですが一つ言えるのは、わたくしの知る陛下はエンドニドル砦の重要性を理解できない方では絶対にないということですわ。エンドニドル砦の急使を追い返すなど到底考えられません。何か――」
「奸計があると、お前は言っていたな」
「はい」
王に変事が起きたことは、もはや疑う余地のない事実であった。
しかもそれは少なくともエレシアがエンドニドル砦に来る二月前には起こっており、おそらくは誰かが――裏で糸を引いている。
これまでの出来事を鑑みると、その誰かとは第一王子のルフランではないかとエレシアは思っている。
しかし、ルフランにそんなことができるはずがない、とも思う。
彼は基本的に見栄っ張りで堪え性がなく、計画性というものを持ち合わせていない。賢君と名高い王をどうにかできる狡猾さがあるとは到底思えないからだ。
となれば他に、協力者がいるはずだ。
「団長!」
その時、一人の兵士がロズを呼んで走ってきた。思考が切れて、そちらに意識が向く。
「どうした?」
「お、お話しのところ申し訳ありません。王宮から、王紋書が」
エレシアとロズは思わず顔を見合わせる。
王紋書は王の紋章が記された封書で、必然的に重大な要件が書かれている。もしや再三に渡る物資要求に対する返答か、あるいはまったく別の用件か。
気にはなるが、一応は囚人であるエレシアが見ていいものではないだろう。その場から下がろうとすると、ロズが構わないと引きとめた。
「……良いんですの?」
「今、王が何を考えているのか俺にはわからない。お前の意見を聞かせてくれ」
と言うので、エレシアは真剣な面持ちで頷いた。
ロズが兵士から受け取った王紋書を広げていくのを、エレシアは固唾を呑んで見守った。