第六話
この日、エレシアは妙な胸騒ぎを覚えた。
いつもならば朝起きて塔を降りるまでに、風の精霊が楽しげに吹きぬけていくのだが、今日は精霊のいない、肌を舐めるような生温い風が吹いた。
その風から逃げるようにして仕事に向かったが、働いている間も胸のざわめきは落ち着かなかった。
それは顔色にも表れていたらしい。見かねたトッドに休むよう促された。
「他の皆様が働いているのに、悪いですわ」
「そんな青い顔してなに言ってるのさ。エレシアは働きすぎなんだよ」
「そうそう。今まで俺らが不甲斐なかったせいで苦労をかけちまったんだ。ゆっくり休んでくれよ」
トッドの後押しをするのは、最近よく厨房に出入りする中年兵士だった。
彼の主な目的は料理のつまみ食いで、ヨドやトッドに睨まれてもどこ吹く風といった人柄だが、今日は珍しく殊勝な態度でエレシアを気遣っている。
二人にそこまで言われるほどならば、無理を押して働いても他の者に迷惑を掛けるだろう。
「……では、お言葉に甘えて少し休憩して参りますわ」
「そのまま部屋に戻って休んでもいいんだからね」というトッドの優しい言葉に頷きながら、エレシアはその場を後にした。
「大丈夫か?」
休憩できる場所――というよりも、心が安らぐ場所として、エレシアは菜園に来ていた。
すくすくと育つ作物や、その周囲を飛び交う蜂を眺めながらぼうっとしていると、ロズが姿を現してそう言った。
「まあ、ロズ様」
「顔色が悪いぞ。具合が良くないのか?」
「わたくしそんなに酷い顔をしておりますかしら。……大丈夫ですわ。少し動悸がしていたのですけど、ロズ様を見たらすっかり治りました」
「なんだそれは……」
嘘ではない。例の兜を被り、淡々と話すロズの声を聞いていると、いつの間にか妙な胸騒ぎは治まっていた。
「元気ですわよ、ほら」気分が高揚してきたような気さえして、エレシアはくるりと回って笑みを浮かべてみせる。すっかりお馴染みとなったワンピースの裾がふわりと翻った。
ロズはそんなエレシアに小さく息を吐きつつ、作物の様子はどうかと聞いてきた。
あの日以来、ロズはふらっと現れては菜園の様子を見たり、世話をしているエレシアと言葉を交わすようになっていた。
「このテニモッサの収穫はいつなんだ?」
「だいぶ実が大きくなったので……あと二週間ほどでしょうか」
「そんなに早いのか。植えてから三月も経っていないだろう?」
「ええ。元々早熟な種でもあるのですけど、この子たちがいますから」
エレシアが指し示す先には、畑の上を飛び回る小さな蜂の姿があった。
数えられる程度にいる内の一匹が、テニモッサが咲かせた小さな花から離れ、エレシアの肩にとまった。
「おい、刺されるぞ」
「大丈夫ですわ。何もしなければ大人しい子たちですから。――花咲蜂と申しまして、蜜蜂の仲間なのですけど、彼らとは少し生態が違って、花粉の他に精霊の光も運んでおりますの」
よくよく観察すると、エレシアの肩にとまった花咲蜂の脚には、花粉に混じって黄緑の粒子が淡く光っていた。
「これが作物の成長を促していると考えられていますわ。かつてヴィジービーズ領はこの子たちにとてもお世話になりましたの。当家の紋章に描かれている蜂は、この子たちがモデルなのですわ」
「かつて? 今は違うのか?」
「領地が発展するにつれ、農地の規模に対して花咲蜂の数が足りなくなった……とでも言えばよいのでしょうか。花咲蜂はとても優秀な子たちなのですけど生息域がうんと限られておりまして、ヴィジービーズ領では領都周辺の山野のみ。それ以外の地域に連れて行くとすぐ死んでしまって、数も殖やせないんですの」
ですから、とエレシアは続ける。
「エンドニドル砦で見た時はびっくりしましたわ。他領では存在すら知られていなかったのに」
「この辺りには昔からいるな。花咲蜂という名前なのは初めて知ったが」
「あら、そうでしたのね。お教えすることができて嬉しいですわ」
「なぜだ?」
エレシアが指を近づけると、花咲蜂は前脚を伸ばしてその指先をそっと掴んだ。
すり、と頭部をすり寄せて甘える仕草に、エレシアは笑みを綻ばせる。
「ふふ、こんな愛らしい生き物を知らないなんてもったいないではありませんこと?」
「……まあ、有益な蜂だということはわかったが」
「なんだか含みのある言い方ですわね」
「良い印象がないんだ、そいつらに。子どもの頃からよく纏わりつかれて鬱陶しかった。最近は見なくなったと思っていたんだが……どうしてまたこんなに増えたんだ」
「ああそれは、わたくしがいるからかもしれませんわ。生態を調べるためによく触れ合っていましたから、きっと仲間だと思ってくれているのでしょうね」
「なるほど? 同族と誤認させるような匂いが染みついているということか」
「そうかもしれませんけど! もう少し言い方というものが……あ、」
「何? ――っ!?」
不意にロズが仰け反った。
エレシアの肩にいた花咲蜂が、ロズ目がけて飛んでいったのだ。
ぶわんぶわんと羽音を鳴らしながら纏わりつく様は、まるでロズの言葉に抗議しているかのようだ。
「ふふっ、花咲蜂が可愛くないと言われたことにお怒りのようですわよ?」
「可愛くないとは言ってないだろうっ。――わかった、わかった、俺が悪かった。お前たちは役立つ上に愛嬌もある生き物だ」
「まあ、素晴らしいお言葉を賜りましたわね」
「おめでとうございます、ふふ」エレシアが笑いを堪えきれない様子で言うと、花咲蜂は飛び回るのをやめてロズの兜の樹枝に着地した。
「……花咲蜂は人の言葉がわかるのか?」
「どうでしょう? ただ、花咲蜂はどちらかというと精霊に近いと生き物ですから、もしかしたら理解しているのかもしれません」
「理解しているだろう、この態度は……」
濃い琥珀色の木肌に着地した花咲蜂は、そのまま葉の付け根に収まりそこで一休みする構えを見せた。
太々しい態度の花咲蜂に対して、樹枝に生える葉が振動で困惑するかのように揺れる。
鎮座を決め込んだ花咲蜂の明るい黄色と黒の体色が、葉の緑に映えて美しかった。
エレシアがその色彩の対比に目を細めていると、ロズはすぐに視線に気づき、怪訝そうに首を傾げた。
そこに以前にはあった撥ねのけるような雰囲気はない――ゆえに、エレシアは少し逡巡して、思いきったようにロズに尋ねた。
「……ロズ様に、ひとつお伺いしても?」
「ああ、なんだ?」
「その樹枝は本物ですの?」
エレシアの問いは、ロズの虚を突いたらしい。
一瞬沈黙が降りたが、ややあっていつもの調子で答えた。
「本物というのは、造花――模造でないかということか? ならば模造だ。本物であれば、とっくのとうに葉は落ちて枯れているだろう」
青い色に手をかざして答えるロズ。それに対し、エレシアは首を振った。
「ヴィジービーズ家は農業の大家。農作物を育てるのに土地の植生なども調べますから、植物学の知識も有しております。その一族の娘が、模造か本物かを見分けられないはずないじゃありませんか」
それは本物であると暗に断言してみせると、ロズの目が兜の奥で眇められたのがわかった。
エレシアはその視線を受けて、
「ロズ様が人前で兜を外そうとなさらないのは――それが理由ですの?」
と言うと、ロズがわずかに視線を逸らした。
――ずっと疑問ではあった。
差し入れを持っていった時から、エレシアはロズと会うことが増えたが、いつどの時でも彼が素顔を晒している場面と出会うことはなかった。
執務室で書類と相対している時でさえもだ。視界が狭くて見辛いだろうと指摘しても、曖昧な返事をされるだけ。エレシアの差し入れを目の前で食べることも未だにない。
そこまで頑なに隠されれば、誰だって疑問を抱くだろう。
そしてその理由が――兜の下から生え伸びているようにしか見えない樹枝にあるのではないかということに。
「……違う。ただ、魔物の襲来にいつでも対処できるようにしているだけだ」
視線は合わないまま、あらかじめ用意されていたような言葉が返ってくる。
「甲冑は脱いでいるじゃありませんか。兜よりよっぽど、装備するのに時間が掛かるものだと聞いておりますけど」
「情けない話なので言わなかったが、俺の素顔はそれはそれは醜くてな。恥ずかしくて人に見られたくないんだ」
「それは不細工とか不器量であるとかの、一般的に言われる見目の話でよいのでしょうか」
「そう言っている。それ以外に何があるというんだ」
「わたくし、ロズ様がそんなことを気になさる方だとは微塵も思っておりません」
「どうしてだ?」
「だって……ロズ様はたいへん実利的な性格をなさっていますでしょう? 人手になるからと、囚人であるわたくしを王宮の命令に背いて砦で働かせたり、軍事拠点の一部を侵して勝手に作った菜園を、食糧の足しになるのならと容認したりがそうですわね。そんな方が、書類の処理速度を多大に犠牲にしてまで兜を被ったままでいるというのは不自然ですし、その理由が個人の主観に委ねられる容貌の美醜を気にしてのことというのはもっと不自然だと思いますの」
「……」
エレシアの言葉に、ロズは押し黙る。
もし仮に――醜すぎて兵士たちの士気を下げるからだ、と言われていたら、利を優先する彼らしいと少しは納得したかもしれない。
しかし実際は「恥ずかしい」という個人の感情に基づくものであったし、しかもそれでは今度、ヨドや砦の他の兵士たちの態度に説明がつかなくなる。
エレシアはこの疑問を抱いた時、それとなく彼らに理由を聞いたのだ。すると彼らは一様に知らぬ存ぜぬのふりをした。
言葉を濁せばいい。それとなく匂わせる形で答えてくれてもいいのに、触れたが最後、まるで自らが呪われてしまうかのように一切言及しない。
そのくせロズと接する時の彼らは、その意識をロズの側頭部へと向けている。
理由が樹枝にあると推測するのは容易かった。
濃い琥珀色の木肌を持ち、瑞々しい葉を茂らせ、ロズの感情如何によって有様を変えている――こんなにも生命力に溢れたものが模造であるはずがないということも。
ただしそうであるならば、樹枝がそれだけの生命力を見せるための栄養はどこからきているのだという話になる。
水か土に触れていれば、たとえ折れた枝でもやがて根が出て成長するほど植物というのは逞しいものではあるが。
樹枝の根本には――ロズ自身しかいないはずだ。
「お前は俺に、何を言わせたい」
不意にロズに問われて、エレシアは唇を引き結んだ。
正直なところ、こうして聞かずとも彼の兜の下がどうなっているのかは想像がつく。必然的に、頑なに隠そうとする理由も理解できる。
ならばあとは砦の者たちと同じ態度を取ればいい。
それでおそらく、ここまで築いたロズとの関係が崩れることはない。砦で働くにあたって、ひいては濡れ衣を晴らすためには、ロズとの関係は良好であることが望まれる。
――しかし。
「……わたくしは」
なんとなく、嫌だった。
エレシアは自分がほぼ間違いのない答えを出せたことに不満を感じていた。
できればロズの口から直接聞きたかった。
囚人として砦に来ただけの部外者には過ぎた望みであり、彼の心の柔らかい部分を自分で抉らせるような行為だとわかっていてもだ。
軽蔑されてもおかしくはない。
「俺の素顔がどうであろうと、お前には関係のないことだ」
事実ロズの声は感情を無くし、淡々と撥ねのけるだけものになっていた。
「ただの好奇心だと言うのならばこれ以上は踏み込むな。そうすれば、ここまでの話はなかったことにしてやる」
「わたくしは、ただ――」
教えて欲しくて、あなたのことを。他の誰でもないあなたから。
浮かんだ想いは――しかし。
――カーンカーンカーン……
突如響き渡った鐘の音によって泡沫のように弾けて失せた。