第四話
第一王子の私室に入った政務官は、思わず目を覆った。
「ああ、あの女がいないだけでなんて清々しい気分なんだ!」
そこには絢爛なマントを翻し、宝飾品を煌めかせながら踊るルフランの姿があった。
部屋の中は所狭しと高級な調度品が並び、お付きの侍女や騎士たちが窮屈そうである。
今や宝物庫よりも豪華だと揶揄されている部屋のソファには、ルフランに負けず劣らず着飾ったアリアンナが座っていた。
「殿下が嬉しそうなのを見ると、わたしも嬉しいです」
「ああ、アン。僕の天使」
躍るのを止めたルフランがアリアンナの隣りに腰を下ろし、その体を抱き寄せる。
エレシアをエンドニドル砦へと追放して以来、二人は人目を憚らず堂々と触れ合うようになった。
「君のおかげで僕は自由になれた。あの女が婚約者だった時の僕は、まるで籠に囚われた鳥のようだったよ……」
思い出すだに恐ろしい、とルフランは身を震わせて語る。
「やれ外出するのは王子としての仕事が終わってからにしろだの、不必要な贅沢をするな、だの。わかっていることを一々ぐちぐちと……僕にだって都合というものがあるんだ」
「ルフランは第一王子で難しいお仕事ばかりなんだから息抜きは大事ですよね。それに、王族がみすぼらしい格好していたら威厳がなくなるんじゃないかってわたしは思うんですけど……」
「アンは……流石だな。どんな側近も、僕の考えを理解できる者はいなかった。それを思えば、あの女が理解できないのも当然か」
「エレシア様は侯爵家のお嬢様でなんの苦労もなく生きてきたから、ルフランの苦労なんてわからなかったのかもしれないですね……かわいそうに。……あっ、ごめんなさい! わたしなんかが憐れんじゃって……」
「あんな愚かな女に同情してやるなんて、君はなんて優しいんだろうね。僕もその優しい心に甘えて、支えてもらってばっかりだ」
「そっそんなことないですっ! わたしの方がずっと、ルフランに助けてもらってますっ」
「ふふ、そんな謙虚なところも愛しいよ。本当に君は素晴らしい女性だ。君と結婚できる日が待ち遠しいよ」
「わたしもです。……でもまだ、精霊教会の人たちは認めてくれないんですか?」
「ああ、忌々しいことにね」
チッ、とルフランは舌打ちした。
あの日、第一王子であるルフランが直々に婚約破棄を宣言したというのに、書面上ではまだエレシアが婚約者だった。
そしてそれを取り消すために、キルギーリス王国では精霊教会の承認が必要だった。
「どうしてでしょう? だってエレシア様は罪人になったんです。そんな人を第一王子の婚約者のままにしておくなんて」
「罪状に疑惑が残る、と。ふざけた話だ。僕だけが言ってるんじゃない。国王である父上が裁決を下したんだ。即刻従うべきだろう」
「精霊教会の人たちは、自分たちが王族よりも偉いと思ってるんでしょうか……」
「まったくだ。ついこの間、僕の意見に賛同した父上が自分たちの立場というものを思い知らせてやったばかりだというのに、まだ態度がなっていないな。……だが、これ以上締め上げると今度は民から反発されかねない。そうなると困ったことになる」
「困ったこと?」
小首を傾げ、きょとんと上目遣いで尋ねるアリアンナの頭を撫で、ルフランはこう答えた。
「アン、僕らの結婚パレードは盛大にやるつもりなんだ。王都の大通りを花飾りで埋め尽くして、一流の音楽隊や踊り手が盛り上げる中を、僕らはうんと華やかに飾り立てた六頭立ての馬車で進んでいくんだ。そしてその姿を民にも見せてやりたいと思ってる」
「自分たちの国の王子が結婚するんですから、国民のみなさんはきっと喜んで祝ってくれますね」
「普通に考えればそうだね。だけど、精霊具に税をかけたことで、残念ながら父上に不満を抱いた愚かな民がいるらしいんだ。精霊具は民にしてみればただの生活に便利な道具だからね。それが人間性の堕落を導くことに気がついてないんだ。……それに、精霊教会は生まれた赤子への祝福や、貧民の病気の治療なんかもやっている。小賢しいが僕らより民との関係が深い。その精霊教会をこれ以上仕置きすると、王子である僕や君にも不満の目が向けられるかもしれない。それがパレードの邪魔にならないようにしたいんだ」
「そうなんですね。わたしの出身地だと精霊教会は人を惑わす悪辣な組織だって言われてて、頼りにしたことなんてなかったから……ごめんなさい」
「アンが謝ることじゃない。元々、精霊などという人外の力をありがたがって信用してる連中の方がおかしいんだ。君に言われて、僕も気づいたよ。ただ、この国は楽観的な人間が多いからね。僕のような人間が、彼らを導いてやらないといけない」
「はい! ルフランが王様になったら、絶対に今よりうんと良い国になると思います!」
アリアンナの言葉に、その場にいた全員がぎょっとした。
捉え方によっては、現国王の統治を批判したことになる。不敬罪で罰せられても仕方がないがしかし、ルフランだけはアリアンナの言うことはすべて正しいと言わんばかりに頷いた。
「ありがとう、アン。僕が国王になった時、その隣りには君がいるんだ。ああ、なんて心強いんだろうね。二人でこの国を変えていこう」
「わたしなんかが……ううん、だめですよね。王妃になるのにこんな考え方じゃ。ルフラン、わたしもこの国を変えるために頑張ります……!」
「アンっ!」
深く抱き締め合って、何度も口づけを交わす二人。
そのまましっぽり睦み合いを始めそうな雰囲気に、それまで黙っていた政務官が慌てて彼らの前に進み出た。
「で、殿下、そろそろ執務室に戻って頂きませんと……」
「おい、お前は僕とアンの話を聞いていなかったのか? 今は息抜きの時間だ」
「お邪魔するつもりはないのですが……目を通していただきたい書類が溜まっております。その、お忙しいようでしたら、私どもの方で判断できるものは進めますが……」
政務官がうかがうようにして言うと、答えたのはアリアンナだった。
「えっと、それって、ルフランに内容を見せずに進めちゃうってことですか? そういうの良くないと思いますけど……」
「いえ、そういうことではなく、」
「あ、ごめんなさいっ! わたしみたいな小娘が口出しするな、って感じですよね……!」
「だっておかしいと思ったから、」と涙目になるアリアンナを庇うように、ルフランが立ち上がった。
「いいや、まさにアンの言う通りだ! そうやってお前たちは自らの都合の良いように国政を動かそうというのだな! いいか、父上が政務を任せたのはこの僕だ。なのに勝手なことをして、父上が知ったらどんなにお怒りになるだろうな……!」
「そ、その陛下に、私どもはまだお会いできないのでしょうか」
元より気弱げな政務官は、さらに身を縮こまらせて尋ねた。
――一月ほど前だろうか、今まで精力的に活動していた王が、突如寝所に引きこもり出てこなくなった。
どうしたことかと伺えば、重い病を患い政務を取り仕切ることが難しいと返ってきた。
たしかにそれまで、体調が思わしくないのではと思う日もあった。
しかしそれは過労による疲れだと医者が診断したし、ならばと臣下たちも政務における王の負担を減らそうと努めたし、王自身もそんな臣下の気遣いに応えて、以前よりずっと体調に気を使っていた――はずなのに。
「お前たちの無能によって、父上は倒れられたのだ。それをよくぬけぬけと面会したいなどと言えるな。厚顔無恥も甚だしいとはこのことだ。父上の代理を務めて、よくわかった」
そして王が表に出てこなくなって二週間が経つ頃、ルフランに国務を任せるよう指示が出された。
それは、精霊具に特別な税をかけた時よりも愚策である――と臣下一同は思った。
ルフランの政治能力はほぼ無きに等しい。王子として与えられている公務ですら辛うじてやっとと言ったところなのに、ましてや国務など。
もしやこれを機にルフランの政治能力を鍛えるおつもりかと思って言われたとおりにしてみれば、執務室には来るものの、無為に書類を眺めるばかりで何にも進まない。
見かねた政務官たちが優しく教導するも、指図されることが煩わしい様子ですぐにいなくなってしまう。
それでどこに行くかと思えば、大抵は愛人であるアリアンナのところだ。
ただそれも初めの頃だけで、最近は執務室にすら来ず、こうして彼女とともに戯れるばかり。どう考えても国務を任せられる器ではない。
王に直訴したいが、寝所に入ることを許可されているのは医者と、ルフラン、それからアリアンナだけ。
それ以外の者が入ろうとすると、常駐する異様な雰囲気の近衛兵たちに阻まれてしまう。
(第二王子のサリート殿下が他国に留学に行っていなければ……いや、ヴィジービーズ侯爵家の御令嬢がいればこんなことには)
政務官は俯いて、ルフランの叱責に耐えながらそんなことを思う。
キルギーリス王国には二人の王子がいる。王のただ一人の王妃――数年前に逝去しているが――から生まれた紛うことなき兄弟であるが、残念ながら三歳下の弟王子の方が能力も性格も優れていた。
それを一定の評価に保っていたのは、エレシア侯爵令嬢が公務から逃げようとするルフランの首根っこを掴みつつ、王子がやらかした時の尻拭いまでしてくれていたからだ。後ろ盾として、彼女の実家ヴィジービーズ侯爵家がいることも大きな理由だろう。ヴィジービーズ侯爵家に頭の上がらない大貴族は多い。
そう臣下の大半は理解しているが、ルフランはそれを疎ましく思っていたし、中にはヴィジービーズ侯爵家の振舞いを僭越と感じる者もいただろう。
エレシアを追放するための愚かなパーティに参加したのはその貴族たちであり、政務官はまともな貴族とともに、どうにかヴィジービーズ侯爵家への沙汰を取り消してもらおうと動いている。
王に会うことができないために――今日に至るまで芳しい成果は出ていないが。
その苦労を嘲け嗤うかのように、ルフランは政務官にこう吐き捨てた。
「はあ……お前が口うるさいのでやる気が無くなった。今日の政務は終いにする」
「そ、そんな……」
「アン、今から僕と一緒に王立演劇場に行こう。今日の演目は"くたびれ農夫と陽気なバイオリン弾き"だそうだぞ」
「働きすぎて人相が変わってしまうくらい疲れきった農夫を、とあるバイオリン弾きが明るく励ます喜劇ですよね! もう五回以上見てますが、とても面白いです」
「芸術を見る目もあるなんて、僕の婚約者は本当に完璧だな」
ルフランはアリアンナの手を取って立ち上がらせ、腰を抱いて歩き出した。
追い縋ろうとする政務官を視線で黙らせると、彼は口をつぐんで項垂れた。
その姿を見て――ルフランは、きっとあの女もこうして惨めな姿を晒しているだろうことを思いほくそ笑んだ。
「……そうだ。エンドニドル砦の長もそれはそれは醜悪な見目をしていると聞くぞ」
「くたびれ農夫みたいにですか? 魔物が出るところに住んでいると、やっぱりその影響が出ちゃうんでしょうね」
「魔物も醜い姿形をしているからな。僕が一度だけ出会った魔物は、顔の部分が潰れていて、木の幹のような脚で歩く野兎ような生き物だったな」
「暴れたところを、僕の剣の錆にしてやったが」とルフランは胸を反って言う。
王宮での剣術大会で優勝経験のあるルフランは、己の剣の実力に自信を持っていた。
アリアンナはそんなルフランに目を輝かせる。
「ルフランすごい……! あの、わたし思いついたんですけど、ルフランが魔物を倒したら国民のみなさんの人気って上がるんじゃないでしょうか? そしたら、精霊教会もルフランの言うことを聞くようになるかも……」
「……! 素晴らしい考えだ、アン。民が精霊教会なんかに頼るのも、おそらくは不安の表れだろう。その象徴である魔物を討伐することによって、民の不安は消し去られ、英雄として崇められる。素晴らしい、次期国王たる僕に相応しい役じゃないか」
「殿下、無茶でございます! あそこは魔物だけでなく、隣国バルガンとの国境なのですよ! 御身に何かあったらいかがなさるおつもりですか!」
「僕なら問題ない。いいか、お前は無用の心配などしていないで、僕が帰ってくるまでに精霊教会に圧をかけておけ。英雄に敵対視されたくなければ、ただちに魔女との婚約をなかったことにしろとな!」
ルフランが鼻息も荒々しく出ていくと、残った政務官は疲れきったため息を吐き出したのだった。