第二話
錠が外される音が聞こえた。
開かれた扉から緩く風が入り込む。外を眺めていたエレシアは振り返り、入ってきた大柄な男を見やった。
「おはようございます。食事の時間ですの?」
「……」
「今日は……あら、ハゴロモキャベツのスープですのね。ピリの実は使いました? 細かく刻んで一緒に煮ると、ハゴロモキャベツの甘みを引き立ててくれるんですのよ」
「……」
エレシアがいくら話しかけても、男からの反応はなかった。食事をテーブルの上に置くと、早々と部屋を出て行ってしまう。
扉が閉まる重苦しい音を聞いて、エレシアはため息を吐いた。
――エンドニドル砦、その一画にある塔に閉じ込められて五日が経った。
あの夜会の最中に気絶したエレシアは、そのまま馬車に乗せられここに連れられてきた。
二日かかった道のりの中で、脱走を防ぐためについた兵士たちからは散々罵詈雑言を受けた。そのためてっきりここでも拷問や――少なくとも尋問の類が行われるかと思っていたのだが、そうはならなかった。むしろ逆で、ほとんど放置されている。
エレシアの元を訪れるのは、先ほどの食事係が一日二回だけだった。それも会話は一切無い。
懐柔されることを恐れているのだろうか。だからといって扉の側に見張りすら置かないのは如何なものだろう。かと思えば扉には鍵が掛けられていて、脱獄を許してくれる、というわけではないらしい。
「まずいですわね」
このままではルフランの言った通り、本当に一生をここで過ごすことになってしまう。
まっぴらごめんだ。濡れ衣を着せられて大人しくしているほど、エレシアは従順な令嬢ではない。
誰かの手を借りられる見込みがこれ以上ないのならば、自らが動くだけのこと。
「――ただ悉くに身を尽くせ、ですわ」
言うや否や、エレシアはスープを一気に飲み干して立ち上がった。酷い味のスープは、己を奮い立たせるにはちょうど良かった。
エレシアは部屋の窓に近づき、鉄の格子を外した。これは後付けのものだったのか造作が甘く、エレシアが初日から根気強く負荷をかけ続けていたことで外すことができた。
外は嫌味なほどに晴れていた。陽光が地上に降り注いでいたが、目の前にはその光を拒絶するような黒々とした平原が広がっていた。
「エンドニドル領のことは、数十年前隣国バルガンが攻めてきた時の戦地であることと、魔物が出る土地だということぐらいしか知りませんでしたけど……こんな風景があるなんて。まるで影の海ですわ。どういう要因があってこんな植生に? 元々がそういう種なのか……それとも魔物が関係しているのかしら」
ついそんなことを考えてしまうのは、ヴィジービーズ家が昔から植生や土壌の研究に熱心な一族であるからだろう。
ヴィジービーズ家が作物を育てる際は、種を植える前に必ずその土地の環境を調査する。
土地に合った作物を育てることによって、他の貴族の追随を許さない安定性と収穫量を得ることに成功していた。
そのせいか、見たことのない植物に出会うとつい研究者たる一面が疼いてしまうのだ。
「気になるけど、今は考えている暇はありませんわね」
とにかくここから脱出しなくては。砦から出てどこかの町に入れば、援助を求めることができる伝手があった。
「高っ……」
真下を覗き込めば、地面は遥か下にあった。落ちたらただでは済まない高さだ。
「ですが……これしかありませんわ」
エレシアは急いで部屋にあったベッドのシーツを引っぺがした。
囚人に与えられたものにしては上等なシーツだ。それに限らず、この部屋の調度品はどこか質の良いもので揃えられていた。
不思議には思ったが、今は時間が惜しい。
エレシアはシーツと、カーテンなどのいくつかの布を繋ぎ合わせ、それをベッドの脚に固く結び窓際に寄せた。
「引っ張っても……うん、問題はなさそうですわね。……よし」
エレシアは覚悟を決めて窓に足をかけた。下を見ないようにして、命綱をしっかりと握りながら降りていく。時折砦の兵士たちの気配を探ったが、あたりは誰もいないかと思うほどに静かだ。
「大丈夫よエレシア……しっかり進めてるわ。もう少しよ……あ」
順調に進んでいるかと思われたが、あと少しというところで長さが足りなくなってしまった。
恐る恐る下を見ると、無傷であれば幸いといった程度の高さがまだ残っている。
普通ならば怖気づいて当然。だが、ここまで来たら後戻りは出来なかった。
エレシアは深く息を吸い、気を落ち着かせるための聖句を唱えた。
「尊き光よ、どうかご加護を」
意を決して、命綱から手を放した瞬間だった。
エレシアの体を押し上げるような風が突如吹いたのだ。
ゴオォォという耳を通り過ぎていく風の音の中に、かすかに笑い声のようなものが混じっているのをエレシアは聞いた。
風の精霊だ、と目を見張るのと、衝撃が背中を叩いたのは同時だった。
「いたっ! ……く、は、ない?」
目をぱちぱちと瞬かせる。ちょうど生えていた灌木が残りの衝撃を吸ってくれたのか、痛みはほとんどなかった。
信じられない思いで見上げると、つたってきたシーツが浮き上がり、窓の中に滑り込んでいくのが見えた。
鮮やかな緑の光がいくつか煌めき、高い空へと駆け抜けていった。
「日頃から精霊教会を支援していたおかげかしら……」
茫然とした表情で、ぽつり。
精霊教会はこの世界の主宗教の一つであった。自然の意思とされる精霊を信仰し、時には精霊具と呼ばれる便利なアイテムを生み出し、人々に精霊の素晴らしさを布教する組織。
多くの国で精霊教会は活動を許されているのだが、キルギーリス王国では近頃王が反精霊教会となってしまい、活動を制限されてしまった。
しかしヴィジービーズ家は表立っては王の姿勢に倣いながら、裏では秘密裏に精霊教会を支援していたのだ。
その結果が今ここに出たのだろうか。昔教えてもらった聖句で、まさか風の精霊が手助けしてくれるとは。感謝の印として、今後の支援金額をもっと増やすよう父にお願いしよう。
そんなことを思う程度には、エレシアはひとまず安堵していた。――その隙が、背後から近づく人の気配に気づかなかった原因だった。
「――何をしている」
鋭い剣先が、顔の真横に突き出された。
誰何する声はやけに籠っていた。それもそのはず、おそるおそる振り返って見上げた先には、頭部をすっぽりと兜で覆った男がいたのだ。
「……え?」
奇妙な感覚に襲われたのは、その兜の特徴的な形のせいだった。
全体的な造形は一般的な兵士のものと変わりないが、一点、右の側頭部にあたる場所から鹿の角――と見紛うばかりの太さの樹枝がにょきりと生えていた。
それはちょうど耳のあたりで兜を貫通し、下に潜り込んでいるように見えた。
だが、兜は被った際肌にぴったりと密着するものだ。どんなに細かろうと入り込めるような隙間は無いはずで、エレシアはまるで騙し絵を見ているような気分になった。
構造を理解しようとまじまじと見ていると、男があからさまに不穏な気配を纏うのがわかった。
エレシアは自分が不躾なことをしているのを察し、慌てて目を逸らした。
「これは失礼しました。とんだご無礼を」
「謝罪が聞きたいんじゃない。俺はお前に何をしているのかと聞いている」
男の声は低く冷たい。
大の大人でも震え上がりそうな声音だ。だがこれ幸いと、エレシアは怯えている風を装って言った。
「わ、わたくしは最近この砦で働き出した下女です。洗濯物が風で飛んでいってしまって、追いかけていたら、迷い込んでこんなところに、」
「嘘を吐くな」
男の返事はにべもなかった。
「この砦に若い女はいない。それに……その服、下女が着るにはいささか上等なものだな? 堕落の魔女、エレシア・ヴィジービーズ」
しまった。
さすがに何日も同じドレスでいるのは衛生上良くないと、食事係に願い出て渡されたこのワンピース。
これまで着たことのあるどの服よりも質素だったために、よもや侯爵令嬢とは見られまいと安心していたのだが、まさかそれでも上等な部類に入るものだったとは。
高級な調度品が揃えられている時点で気がつくべきだった。この砦には、しっかりと貴族用の服が用意されていたのだ。
己の失態にエレシアは薄く唇を噛んだ。
「ご存じの上でお尋ねになったと? ひどいですわね」
ここまで把握されては、憐れな迷子の下女を演じても意味がない。
エレシアはワンピースについた土埃を払いながらすっくと立ち上がった。
「おっしゃるとおり、わたくしが堕落の魔女――などではなく、ヴィジービーズ侯爵が娘エレシア・ヴィジービーズですわ。それで、あなたはどなた様なのかお尋ねしても?」
「さすが、貴族というのは太々しい態度だな。……俺はロズ。この砦の統括を任されている者だ」
なんと、偶然にも砦の長と出会ってしまった。
不運にもほどがある。一介の兵士なら、食事係のように接触を拒まれない限りは言いくるめる自信がエレシアにはあった。
しかし軍の高官というのはいかな手練手管でも丸め込むのは難しく、印象最悪なこんな状況ではほぼ無理筋である。
「まあ……そんな大役を担う方がどうしてこんな所に?」
「監獄の塔から白い旗のようなものがはためくのが見えた。何事かと思って来てみれば、幽閉を言い渡されたはずの罪人が逃げ出していてな」
「あら、覚えて頂いていたとは光栄ですわ。わたくしはてっきり、数日前に閉じ込めた人間のことなどすっぱりさっぱりお忘れかと思っておりました」
「忘れるだと? 住む場所や着る物を与え、食事も毎日出してやっていただろう。何が不満で脱獄した?」
「……不満と言えばそもそも、わたくしは堕落の魔女などと呼ばれるような罪を犯した覚えはありませんの」
「お前の罪状は国王直々に認めたものと聞いている。それを疑うとでも?」
「賢君と名高い陛下が、このような暴挙じみた裁決を下すはずがございませんわ――絶対に」
侯爵令嬢であり、第一王子の婚約者でもあるエレシアは、王と直接会ったことがある。
交わす言葉こそ多くはなかったものの、緊張するエレシアに優しく声をかけてくれたり、冗談を言ってみせたりと、穏やかで愛敬もある親しみやすい人柄だったと記憶している。
かと思えば政治の面は堅実で、不正があれば厳しく取り締まる。そんな王があのような明らかに無理がある罪状に王紋印を捺すとは思えない。
たしかに、ここ一月ほどはお体の具合が悪いと聞いていた。だがそれで判断が鈍るような人物ではないはずだ。
「おそらくは何者かの奸計があったのですわ」
苦々しい表情をするエレシアに対し、ロズは「はッ」と鼻で笑った。
「企みが暴かれたのはお前たちの方ではないのか? 出会い頭に平然と嘘をつくような娘がいるのなら、国王の判断は間違いないだろうな」
「聞き捨てなりませんわね。わが一族が陛下に対して、謀反を起こそうとしていたとでも?」
「貴族というのは一族の繁栄のためならば、自らの主君すら欺く生き物だろう」
「まあ、なんて言いがかりでしょう。あなたの貴族観はとんでもなくねじ曲がっておりましてよ」
「なんとでも言え。貴族の収監など、王宮との交換条件がなければ到底願い下げだった」
「わたくしがここにいるのが嫌だと仰るのでしたら、陛下に訴えて頂いてよろしいんですのよ。ええ、是非ともそうしてくださいませ。エンドニドル砦の長の言葉でしたら、陛下とておさおさ無下にはされませんでしょう」
「忙しい。魔物が活発になり、数も増えている。そんなことをしている暇など無い」
ロズの態度は一貫して辛辣だった。
抜け出した現場を見られているし、どうやらお貴族様が嫌いなようなので納得の態度ではある。正直、即座に切り殺されないだけ御の字と言えよう。
しかし、このままでは再び塔へ戻されるのは確実。
それだけは困る。なんとか打開策はないものかとエレシアが思案を巡らせていると、にわかに人の気配が増えた。
兵装を帯びた複数の人間がロズの現れた方向からやってきて、二人を見て困惑したように足踏みをした。
「ロズ団長――あの、いかがされましたか? 報告の途中で急に走っていかれるなど……この女性は?」
「ちょうどいい。お前たち、魔女を塔に戻せ」
「堕落の魔女! 脱走したというのですか!? いったいどうやって……まさか、魔術?」
「そんなものじゃない。カーテンやシーツを結び合わせて命綱代わりに使ったようだな。この高さを降りようする人間がいるとは思っていなかったが、甘かったな。見張りをつけろ。朝と夜、交代で――」
エレシアはそこでハッとして声を上げた。
「いいえお断りしますわ。あなた方は魔物の脅威に備えなければならないのでしょう? そんな中、わたくしに割く人員がおありなのかしら」
「……錠を増やせ。窓には改めて鉄格子を嵌めて――いや、余剰の鉄はこの前の防衛で使ったか……」
「あら、以前と何も変わらないのであれば、わたくしまた抜け出したくなってしまいますわね」
「お前、自分が何を言っているのかわかってるのか? 脱獄は本来その場で切り殺されてもおかしくないんだぞ」
「脱獄なんてしてませんわ。わたくしはただ散歩がしたかっただけですの」
「はっ?」
何食わぬ顔で答えてみせるエレシアに、ロズの動きがしばし止まった。
これはあれだ。幼い頃、ふらっと領地の山に入り丸一日戻らず、領兵総出で捜索中、しれっと戻ってきて厨房でキノコ料理を作っていた自分を見た時の両親の様子に似ている。
あの時はしこたま怒られたが、エレシアの図太さはそこですでに完成しているレベルのものである。
そして交渉できるこの絶好の機会を、逃すわけにはいかないのだ。とりあえず押せるだけ押す。
「そう険しい顔をなさらないで。わたくしにいい案がありますわ」
胸を張って、エレシアは提案した。
「わたくしをこの砦で働かせてくださいまし。食事作りでも掃除でもなんでもやります。これでも実家では侯爵令嬢らしからぬ落ち着きのなさ……いえ、働き者と言われておりましたわ」
「何を企んでいる?」
「まあ、困っている人間を助けるのは当然のことですわ。ですが、そうですわね……あなたが納得するような理由を申し上げるとすれば、その見返りに両親に手紙を出させて頂ければと。もちろん中身は検閲していただいて構いませんわ」
「……隙を見て逃げ出すつもりだろう」
「ご心配なさらずとも、砦で働かせて頂ければ、そこかしこにいる兵士のみなさまがわたくしを監視しますでしょう。塔の上で息をしているかどうかもわからない状態よりも、その方が良いのではありませんか?」
「強引な……これだから貴族は嫌いだ」
ロズが大きく舌打ちをした。
エレシアの言うことを信じたわけではないだろうが、これ以上討論するのも煩わしい様子だった。
「いいだろう。そうまで言うのなら働いてもらおうか。朝は誰よりも早く起き、兵士たちの食事を作り、手が擦り切れるまで掃除をし、誰よりも遅く眠れ。何人もの使用人に囲まれて生活してきた侯爵令嬢様に、それができるのならな。妙な動きをすれば……その場で切り捨てる」
兜の隙間から、凄みを帯びた視線が飛んできた。
エレシアも目を細めて応じる。
「それはそれは……願ってもありませんわね。わたくしの働きっぷりをとくとご覧になられるがよろしいわ。ちょうどわたくし、絶対に改善したいことがございましたの。ええ、まずはその毎日出される食事についてですわ」
「なんだ? 貴族のように豪勢なものを出せとでも言うのか? 生憎とそんな予算は無い。肉は兵士たちに回している。魔女は野菜でも食っていろ」
嘲るように言ったロズの言葉に、エレシアはカチンときた。
「聞き捨てなりません! あなた今、お野菜様を馬鹿にしましたわね!?」
「は?」
エレシアはキッとロズを睨み上げた。
「いいですか!? お野菜は栄養の塊であらせられますのよ! そのお野菜がまっっずい! なんですのあのハゴロモキャベツは! ぐにゃぐにゃとした気持ち悪い食感! 下拵えが甘くて土臭さと! えっぐいえぐみが! わたくしの口腔を犯し尽くして死ぬかと思いましたわ! 生産者様の顔を疑似的に思い浮かべて飲み込みましたけど! 至急改善する必要があります! とにもかくにも料理人に会わせなさい!!」
ものすごい剣幕で捲し立てるエレシア。
そこには、キルギーリス王国の食糧庫の異名を有する領地に君臨する、誇り高き農業従事者の一族としての堂々たる姿があった。
それまで冷静であった令嬢の剣幕に、ロズだけでなく後ろに控えた兵士たちも一様に呆気にとられたのだった。