第一話
久方ぶりの王宮は、酷く甘い匂いがした。
「エレシア・ヴィジービーズ侯爵令嬢! 今日この場をもってお前との婚約を破棄させてもらう!」
煌びやかな調度品、贅を凝らした料理の数々が並ぶ夜会。華やかに着飾った人々が各々楽しむ中で、その声は突如として響き渡った。
ただし高揚めいた声音とは裏腹に、告げられた内容はこの場に相応しいとは言い難いものだった。
あまりの似つかわなさに意味を理解しかねたエレシアは、扇で口元を覆いながら蜜蠟色の瞳を瞬かせた。
「ルフラン殿下? 今、なんと仰いました?」
発言の主は、この国の第一王子であるルフラン・キルギーリスであった。彼は柔和な顔立ちに厳しい表情を浮かべ、エレシアと対峙するかのように立っていた。
本来ならばルフランは婚約者であるエレシアの側にいなければいけないはずだ。
だが、彼は代わりにふわふわとした栗色の髪を持つ女性の腰を抱いていた。幼く愛らし気な顔立ちでありながら、ざっくりと開いた胸元からは豊満な胸が覗いており――それをルフランに寄せて、憐れみに満ちた視線をエレシアに投げかけていた。
「ルフランはあなたとの婚約を破棄するって言ったんですよ、エレシア様」
彼女のことは、侯爵令嬢として叩きこまれたエレシアの貴族図鑑の中にも覚えが無かった。
であればつい最近爵位を与えられた家の令嬢か――さすがにただの平民が王宮の夜会に招かれることは無い。しかしその程度の家格では、侯爵令嬢たるエレシアに対して顔を上げることすら許されないのがこの国の貴族社会の決まりだ。
それが王子とその婚約者の会話に割って入り、あまつさえ王族の言葉をなぞるという愚挙。
あまりに非常識な振舞いを目の当たりにしたせいだろうか、くらりと眩暈がしてふらついた。
しかし、周囲の貴族で女性の発言を気にとめる者はいなかった。
彼らは三人から少し距離を離して取り囲み、不気味なほど静かに成行きを見守っている。
「――失礼、前をあけてくれ! エレシア!」
「ハロルド兄さま……」
唯一、肉親である兄のハロルドだけがエレシアに焦った様子で駆け寄ってきた。
「騎士ハロルド・ヴィジービーズ。お前にこの場の警護は命じていない、今すぐ下がれ!」
「いいえ、どうかお許しを……! 兄として、ヴィジービーズ侯爵家の者として、見て見ぬふりなどできません。殿下……殿下とエレシアの婚約は、王家とヴィジービーズ侯爵家が合意の上取り決めたもののはず。どうして今さら破棄するなど……!」
「どうして、だと? わからないのか?」
婚約破棄に至った理由を、ということだ。
ハロルドが視線でエレシアに問いかけてきたが、エレシアは困惑した表情で首を振るしかなかった。
「はい……ええ。お恐れながら、わかりかねております」
「殿下、エレシアは生まれた時から貴族の淑女たれと当家が厳格な教育を施して参りました。振る舞いから言動、交遊関係に至るまで、婚約破棄される程の瑕疵が妹にあるとは思えません」
食い下がるハロルドに対し、ルフランの態度は冷ややかだった。
「そうか。あくまでしらを切るというのならば、この僕が教えてやる」
と言うと、ルフランは手にしていた丸巻きの紙を勢いよく広げた。
「……っ!?」
突きだされたそれを見て、エレシアは息を呑んだ。
"堕落の魔女エレシア・ヴィジービーズ侯爵令嬢の悪行"
冒頭、そんな衝撃的な書き出しから始まった書面には、エレシアが行った、あるいは関わったとされる罪状が列挙されていた。
詐欺や脅迫から始まり、殺人教唆、魔薬の密売、娼婦への斡旋――などなど。人生を捧げてもこれほどの罪は犯せないだろうという数が、ルフランの腰まである紙に書き連ねられていた。
内容とて幼子の空想の方がまだ現実味がある。
しかしそんな荒唐無稽な空想は、最後に記された国王の印――王紋印によって、紛れもない事実のものにされていた。
「そんなまさか……国王陛下がこれをお認めになったというの……?」
愕然とするエレシアの周りで、「なんて悍ましい……!」「王家の威光をかさに好き放題していたとは」と侮蔑も露わな声がした。いかにも大仰で、演技がかった風だった。
「僕も自分の婚約者がまさかこんな夥しい罪を重ねているとは信じたくはなかった! いくつもの証言があがっても、何かの間違いだと父上に訴えかけた……。だがこのアリアンナが! 僕の目を覚まさせてくれたのだ! 献身的な愛をもって!」
「ああルフランっ!」
ルフランとアリアンナは見つめあい、ひしと抱擁を交わした。周囲の貴族たちは感嘆の息を漏らし、口々に二人の美しい絆を讃えた。
一方でエレシアとハロルドは、陳腐な恋愛劇を観せられている気分になった。
観客そっちのけで盛り上がる二人を一瞥し、ハロルドが吐き捨てる。
「……この仕打ち、王家は当家と対立するとおっしゃるのだな。今までその女の比ではないほどの献身を捧げてきた我らと――キルギーリス王国の食糧庫と称される我らの領と」
「ふん、脅しか? ならばなんの問題も無いな。ヴィジービーズ領は今日をもって王家の直轄領となる。お前の父にも同じく罪状が挙がっているためにな。――そしてたった今、お前にもだ。次期国王たる僕に、こうまで逆らった罪を悔いるがいい!」
「馬鹿な! そんなこと、できるはずがない!」
人垣を割って、ルフランの親衛隊がハロルドを拘束した。
「ハロルド兄さま!」
「エレシア、お前だけでも領地に戻れ!」
「嫌です! ルフラン殿下、これは何かの間違いですわ! どうか冷静にお考え直しくださ――……っ!?」
「エレシア!」
声を上げたエレシアだったが、踏み込んだ足がもたついて転んでしまった。
立ち上がろうとするところを親衛隊に抑えつけられる。
「往生際が悪いぞ! 心配せずともヴィジービーズ領には戻れない。お前はこれよりエンドニドル砦に追放され、生涯そこで過ごすのだ」
「なんと……!」「まあ」「恐ろしい……」と周囲の貴族たちから悲鳴のような声が上がった。
エンドニドル砦は王国の果て、辺境の地に築かれた防衛施設だ。そこはかつての戦争の影響で、草木がすべて死に絶え、人の生き血を啜る魔物が跋扈する呪われた地になったと言われている。
目を見開くエレシアに、ルフランは得意げな顔で続ける。
「本来ならば死罪だったところを僕が取り成してやったんだぞ? 感謝するがいい」
「ルフラン……なんて優しいの。でも、それってエレシア様にまだ未練があるからですか? だとしたら……わたしは悲しいです」
「そんなことはないさ、もうこれっきりだ。これからは君だけを愛すると誓うよアリアンナ……いや、アン」
「ルフラン……」
口づけを交わす二人から、エレシアは思わず目を背けた。
――こんな、こんな滅茶苦茶なことがあるはずがない。
ハロルドの言った通り、ヴィジービーズ家は長きに渡って王国を支えてきた。
政治や経済の面はもちろん、特に農業においては、かつて国史に残る程の凶荒から国を救った事もある。その時の功績をもってヴィジービーズ家は時の王女を賜り、侯爵家となったのだ。
――ただ悉くに身を尽くせ。
それがヴィジービーズ家に代々受け継がれている家訓だ。一族はその言葉に従って、侯爵家になって以降もたゆまぬ努力と献身を続け、王国の発展と安寧に寄与してきた。
だというのに、その献身が、明らかな欺瞞によって貶められている。
こればかりはヴィジービーズ家の長女として、到底受け入れられるはずのないことだった。
何かが起きている。
それを調べなければ、動かなければ。
だがそんな決意も空しく、エレシアの意識は段々と遠のき、やがてふつりと途切れてしまった。
***
男が一人、格子越しに彼方を見つめていた。
遠くにはウルミネス峡谷が見える。国境を分かつ深い谷だ。向こう側には、代々野心の強い王を戴く国がある。
周囲には季節問わず生い茂る森が広がっているが、これはキルギーリス王国に向かって急速に密度と――色彩を失っていき、やがて黒以外の色を持たない植物に支配される。影野原と呼ばれる平原だ。
男の深紅色の瞳は、その平原を睨み据えていた。
魔物を生み出す悍ましい土地だ。黒く萎びた灌木の影から、あるいは死体の様にごろりと転がる岩の影からそれは現れる。歪な形の生物は、何かを探し求めるように徘徊し、思い出したかのように暴れ狂う。
幸い平原は左右を岩山に挟まれていた。切り立った場所が多く、容易には越えられない。
そのため魔物はふらふらと彷徨いながら、唯一低い場所へと流れていく。
――つまりは、このエンドニドル砦へと。
男の瞳の色が強くなった。感情を押し込めるようにして、手にしていた兜を被る。
「ロズ団長、ご思案中のところ申し訳ありません……」
ちょうどその時、か細い声が男を――ロズを呼んだ。
「なんだ」とロズが振り返ると、呼び掛けた部下が「ひっ」とびくついた声を上げた。ロズはため息を飲み込んで、入室を促した。
ロズがいたのは砦にある塔の内の一つ、そこに造られた小部屋の中だった。かつては見張り役の兵士休憩する場所として使っていたが、その後ある用途を経て――以降、立入り禁止となっていた。
それが此度開かれているのは、王宮からのとある命令によるものだった。
「お邪魔して申し訳ございません。あの……それで、どうです? 指示された通り、人一人が過ごす分には問題ない程度には手入れしたんですけど……」
扉を開けて入ってきた部下が恐る恐る尋ねる。
ロズはぐるりと部屋の中を見渡した。
部下は手入れをしたと言ったが、換気が不十分なのか部屋には黴臭さが残っていたし、家具には拭き取られるのを免れたホコリがあった。カーテンや寝具にもしわが寄っている。
だが、これは貴族でなければ気にしない程度のものだ。
手入れしてくれた者は、見栄ばかりの豪邸で掃除に従事する下男などではなく、砦で魔物の脅威を払う兵士なのだ。箒よりも剣を握るべきなのであって、こんなことにかまけている場合ではない。
「十分だ。元々、王宮が罪人を収監する部屋を用意しろと言ってきたのがたった一週間前のことだからな。できることはやってやった」
「ですが、ここに来るのって侯爵家のご令嬢なんですよね? 大丈夫ですかね、ドレスとか買っておいた方が……?」
「必要ないだろう。なにせ、魔女と呼ばれるほどの大罪を犯したらしいからな。もはや貴族ではない」
ロズは平原とは反対側の、王都のある方角を見やった。
そこには魔物の脅威の一切をこの砦に押しつけ、ぬくぬくと暮らしている貴族たちがいる。彼らはきっと、魔物の牙も爪もその恐ろしさも知らないだろう。
特に侯爵家の令嬢など。きっと大切に大切に育てられてきたことだろう。もしかしたら、魔物という存在すら知らないかもしれない。
ふとそんな人間が犯した罪とはどんなものだと興味が湧いたが、どうせ録でもないことだと首を振った。
――と、こめかみに痛みが走って顔を顰めた。
「団長? どうかなさいましたか?」
被っている兜のおかげで、部下はその表情までは見えない。
ロズはもう一度首を振った。
「……何でもない。さて、囚人の部屋はこれで良いだろう。俺は執務室に戻る」
と言って、一人搭を後にする。
部下はその背中を見送って胸を撫で下ろし、扉を施錠して自らも持ち場に戻っていった。






