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ティムール王子はワルシャワについた。王子は国王からポーランドでの滞在用でイゼ宮殿を与えた。この勅命は王子が総督邸に入ると同時に総督によって伝えられた。そして総督は王子にミハイル王太子のことを慰めた。葬儀が3月16日だということが正式に発表された。王子は周りに知っている人が総督とポーランド大統領以外いない状態に怖くなっていた。乳母もなくなっていた。そして王子の護衛は多くがなくなっていた。
ミハイル王太子の護衛は全員なくなったと思われていたが実はミハイル王太子の最側近の護衛が王太子の命令でドニプロにいって避難民の受け入れを担当していた為生きていた。彼らはドネツクやルハンスク、ザポリージャからの避難民を受け入れるための作業を大公の代理として行わせていた。
アコータコテージに王太子がなくなるときにいた人は王子とその護衛一人を除いて全員なくなっていた。その護衛も重症を追っていたためキーウの病院で治療を受けていた。そしてコテージにいた王太子軍の陸軍は10%ほど失ったが空軍は完全に残っていた。また特殊部隊や海軍そして陸軍の多くははドネツクとかルハンスク、ザポリージャなどミハイル王太子のウクライナ国内での領地の防衛にウクライナとともに参加していた。王太子軍の空軍の70%はウクライナ空軍と協力してウクライナ領空内で航空優勢を確立した。そして残りの30%はベラルーシの援護を行ってロシア軍が取っていた航空優勢を覆してベラルーシ側の航空優勢にかえた。そのため実際の戦闘でも少しベラルーシ軍が立て直せた。
同時に国王は統一軍の派遣を各国の政府に承認を求めた。承認をすべての政府から得られたため、3月3日には統一軍が戦場についた。統一軍がベラルーシとウクライナに陸、空、特、50%ずつと海軍はベラルーシは海に接さないためウクライナ側に加勢した。また全ての部隊の保安員は敵地に侵入したりして情報を収集した。そして空挺部隊と海兵隊は参戦しなかった。
ウクライナ軍は最初は急だったためかなり追い詰められていたが3月1日にはキーウ方面に攻めてきたロシア軍をベラルーシ国境まで押し返してロシア軍をどんどん東に撤退させていった。そしてベラルーシはウクライナの同盟国なのでベラルーシ国内でもロシア軍を追撃した。ウクライナ王国の王室軍と王軍が参戦してキーウの守備を助けた上にウクライナ軍を南と東から集めたためだ。
更に多くの戦いで塹壕を掘っていてその後が残っていたためその残っていた塹壕でキーウ周辺の部隊は応戦できた。またロシア軍の多くは動員兵で士気も低く練度もとても低かった。それに追い打ちをかけるように指揮官の指示に必ずしも従ったわけではなかったためとうせいがとれていなかったのにたいしてウクライナ側は士気が高くすべての兵が精鋭で統制がとても取れていたためだいぶロシア軍より強かったのだ。そのため少ない兵士でもロシア軍の撃退能力を保持していた。これにて2154年2月と3月のキーウの戦いは終了した。
同じ頃ベラルーシでは首都ミンスクがとても危険な状態に陥っていた。民間人も銃を取って戦っていた。ベラルーシの軍隊はウクライナ軍ほど強くなく軍人の数も圧倒的に少なくなかった。このままだと3月5日にはミンスクが落とされるだろうと思われていた。しかし奇跡が起こった。統一軍がベラルーシを助けた。彼らは精鋭中の精鋭でミンスクから50kmのところまで攻められていたが首都から100km以上のところまで戦線を押し返した。さらにキーウ防衛戦ノアとロシア軍を追撃していたウクライナ軍の部隊と合流してロシア軍を押し返し始めた。人々はウクライナを無二の友と呼んだ。
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