幸福な“夢”の終わり
ただただ、この先もどうか俺達だけは幸せに――そう願い、そんな幸せが今後も享受出来ると俺は信じていた最中。
ある日、マナが突然村から姿を消した。
マナが失踪したその日、彼女はいつものように近くの川の麓まで、水を汲みに行くと言って家を出て行った。
しかし、マナは2時間、半日——いや、1日経っても家に戻って来なかったのだ。
俺はただ心配で、マナが行方不明になって半日経った時点で、川の麓まで行ってみたが、そこにマナの姿はなかった。
その後、俺は村の端から端まで探し回り、村内を一周する頃には既に夜となっていた。
「なぁ……っ、誰か…ッ!」
俺は、ただ闇雲にマナを探す。
狩りから帰ってきた村人に、マナは村から出て行かなかったかと聞いて。
月を肴にして愉快に酔っている老人達にも、マナの姿を見なかったかと聞いた。
早朝、羊飼いが帰って来るのを見て、マナを村の外で見なかったかと言ったが、羊飼いは首を横に振る。
そう何人にも問いかけても、マナの消息は分からなかった。
それどころか、村の連中はマナが村からいなくなったことを喜んでいたのである。
「ああ、あの小娘か。不貞行為の末に生まれたがなんだか知らんが、目も髪も赤い不気味な娘など出て行ってくれて清々するともさ」
「所詮、あの娘はお前の帰りを待っていたんだろう? ならもう夢は叶えたじゃないか」
散々浴びせられる彼女への侮辱の言葉に、俺は今にもこの害悪共を殴ってやろうかと思いながらも、俺の左手は必死にで震える拳を抑えていた。
中にはそんな俺の姿を見て、「勇ましいねぇ」と挑発気味に嘲笑う者もいた。
俺のことはどうだっていい。
しかし、何故彼女がここまで非難されなければならないのかと、俺は悔しくて堪らなかった。
俺にとってマナは、この世で最も慈悲深く、他人を大切に出来る優しい子だった。
徴兵令を無視して一時期村から姿を消した臆病者や、昔からの慣習をまるで神聖な儀式だと思い込んでいる老害共よりずっと出来た人間で素晴らしい人間なのだ。だと、言うのに。
「正直、気味が悪かったよ。お前がいない間、夜な夜な村の外れにある洞窟からあの女の泣き声が聞こえてさ。こっちは忌々しい英雄気取りの末代が戦場に送られたことで気分が良かったのに」
村人の誰かがそう言った瞬間、とうとう俺はそいつに拳を振り上げてしまった。
最初、掴みかかった時点で木偶の坊が俺をからかっていたが、俺が1発拳を腹に思い切り当てれば、下卑た笑みなどそいつの面から一瞬で消え失せる。
確かに俺は弱い。英雄になるなんて死んでも御免だ。
戦場にだって戻りたくない、剣だって怖くて手に取ることも出来ない。
しかし、これでも一時期は軍人として戦場に駆り出されていたのだ。単純な地力と経験で言えば、俺はこの村にいる誰よりだって強かった。
現に5回もそいつの顔を殴れば、既に顔面は元型など留めていなかった。
頬は腫れあがり、頬骨は砕けた。
鼻の骨は折れ、無惨にも鼻はへしまがって、鼻腔からは血が流れ続ける。
ああ、汚い。
血の赤い色が汚い。血の赤い色が醜い。こんな醜悪さは正に戦場で見てきた死体と現実そのものではないか。
血の色も知らないくせに、あの鼻を刺す鉄錆びのような臭いも、噎せそうになる臓物の臭いさえ嗅いだこともない人間が、何故こうも容易く人を挑発出来ると言う?
何より殴られるのが恐ろしいくせに、他人へとあんな言葉を投げかけることが出来るなどとどうかしている。
よりによっても彼女に。この世で最も美しい俺の天使に。
「お前ごときがッ、彼女を侮辱するな! 彼女に謝れッ! 謝れぇええええ―――ッ!」
気付けば木偶の坊は既に意識を失っていて、懇願どころか悲鳴さえも出なかった。
響くのは殴打音のみ。
鈍い音などとうにせず、どこかぐちゃぐちゃとを臓物を掻きまわすような不気味な音も混じっている。
もう見たくない。血の色なんて、“赤いもの”なんて見たくない。
そう胸中でトラウマがせりあがってきても、俺の振り上げた拳は未だ木偶の坊の顔を殴り続ける。
だって、憎いんだ。憎いんだよ。
俺のことはなにを言ってもいいし、どう扱おうと構わない。
けれども、マナのことだけは言わせない。
彼女を不貞行為の末に生まれた女など、忌々しい魔女だの、よりにもよって化け物だなんて。
「化け物は、お前らの方だろうがァアアアアアアアア――ッ!!」
咆哮と共に、一打。
今まで響いていた殴打音のうち、ひとしきり鈍い音が鳴る。
とうとう頭蓋骨まで響いたかと俺は錯覚するも、今の音は、木偶の坊から鳴った音ではなかった。
俺はこいつを殴ることに夢中だったから、この一瞬だけ、奴らに気づけなかった。
昂った怒りの向こう側で、悲鳴が聞こえたのだ。
俺はすぐに木偶の坊から離れ、悲鳴が聞こえた方角へと向かう。
悲鳴が聞こえた先——そこへ駆けつけてみれば、地獄のような光景が広がっていた。
赤、赤、赤、赤、赤——とありとあらゆる箇所に、血の跡があった。
「は…はぁ…? なんだよ、これ……」
俺の眼前に広がっていたのは、ただただ村のみんなが見えないなにかに切り裂かれては血しぶきを上げて倒れていく光景。
悲鳴が耳を劈き、誰もが「助けて」と訴えていた。
熱湯のように沸騰していた怒りが一気に冷め、そして恐怖が支配する意識の向こう側で、1人の少年が俺を見つめていた。
「リアムお兄ちゃん! 助け―――ッ」
懇願が聞こえたその刹那、また俺の眼前に赤い血の色が広がる。
「うぁ…ああ…ああああああ……ッ!」
瞬間、俺は踵を返し、ただただ逃げた。
見えないなにかから逃げ、ひたすら前へと走る。しかしそんな足も少し走れば止まってしまう。
何故か? 理由は簡単だ。なにせ俺達を今襲っているなにかは目に映っていない。
闇雲に走ってしまえば、呆気なく切り裂かれて終わってしまう。ゆえに下手に動けば、瞬時に五体はバラバラに切り刻まれるであろう。
しかし立ち止まっていても同じく、ぼーっと突っ立っていれば向こうからすれば恰好の的だ。
一体どこに逃げればいい?——そう逡巡するも、脳内では既に答えが出ていた。
ここに逃げ場所なんてどこにもない。戦場と同じように。
帰りたい、助かりたいなんて一言では済まされない。むしろ戦場のほうがまだ安全なのかもしれない。
既にここに自軍の基地のような安息の場所はなく、俺は、俺達はただ地獄の窯へと放り出されてしまったのだ。
再び逃げ出した俺は、何故か自分の家へと向かっていた。
家の中には誰もいないと言うのに、俺はただ場違いな安心感を求めて自分の家へと向かう。しかしこのとき俺が求めていた安心感とは決して「助かりたい」なんてものではなく――。
「ははっ……なんだ、これ……」
気付けば、俺は壁に立てかけてあったはずの古びた剣を震える手で握っていた。
既に刀身は錆びていて、振るだけで折れてしまうであろうそんな鈍刀。
本当は逃げたいのに、だと言うのに俺はどこかまだ心の中にある幼き日の憧憬に縋ってしまったのだ。
こんなものがあっても、金にも身を守るなにかすらなりもしないと言うのに――そう自嘲した瞬間。
「ピーッ!」と甲高い鳴き声と、家の壁を突き破る轟音がこの場に鳴り響く。
鳴き声がした先に視線を向ければ、そこにはルルが必死に鳴いていた。
ルルは「逃げろ」と言わんばかりに鳴き声を上げ、突然突き破られた壁に向かって鳴き続ける。
鳥籠の中にいるルルは、なにかを恐れるようにただ鳴いている。まるで今にも化け物が襲ってくるぞ、とSOSを出すかのように――その瞬間。
黒いなにかがルルの頭上へと振りかざされる。
俺はそれを見た瞬間、ルルの危機を悟った。
あれは駄目だ。あれに切り裂かれてしまえば、きっとルルは助からない。
そう確信した瞬間、俺の脳裏でマナの声が響いた。
「ねぇ、リアム。リアムは戦うこととかお父さんたちが掲げていた理念が嫌いだったけど、私を……ルルを守るためなら、剣を取ってくれる?」
一瞬、脳裏に聞こえたマナの声に心臓の鼓動が速くなっていく。
俺は歯を食いしばり、そのまま俺は剣を抜く。
前に転がるような形で鳥籠の前へと庇い出て、見えないなにかを真っ向から受け止めるように剣で防げば、甲高い金属音が響いた。
間一髪ではあったが、俺はなんとかルルを守り、なにかを剣で横に薙いで弾く。
そしてそのまま俺は鳥籠を持って、一目散に家から出て行った。
家を出て、ひたすら前へと走って行ったのも、鳥籠を手に取った際に俺の背後から黒い爪のようなものが一瞬見えたからだ。
俺は背後にいると察したなにかを振り切った後、あの黒い爪へと違和感を抱き始める。
と言うのも、少しさっきまでは黒い爪など見えなかったのに、急にルルが襲われた瞬間にアレを視認出来たからだ。
どこか絶対にロジックはある――そう思った瞬間、鳥籠からルルが出て行ってしまう。
「ルルッ!」
俺は鳥籠から出て行ってしまったルルを追うが、ルルは混乱状態にあるのか俺が名前を呼んでも一向に止まってくれやしない。
また次の瞬間、横腹を抉るような形で、突如黒い爪が俺に襲いかかり、なんとか再び剣で防いで回避し、そのまま相手へ打ち返す。
「頼むよ、ルル! 大人しくしていてくれッ!」
しかし、そんな俺の制止など虚しく。
俺の数メートル先を飛んでいたルルは、呆気なく黒い爪に切り裂かれてしまった。
こんばんは、2日続けての更新です。
ご覧の通り、ここからが絶望の始まりでリアム君が血反吐を吐きながら前へ進む修羅の道が始まります。
「あれ? 剣は錆びていたのでは??」と思うかもしれませんが、それは次回でこの謎が回収されています。
はたして誰が、「リアム君の言葉を信用してもいい」と言ったのか。ちなみに私は言っていません。絶対に言いません。