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Lost Inside―取り戻せない日々―  作者: 古見理英
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震え

 無理もなかった。私はとんでもないことをしでかした異物だったのだから。


「こっち来て」


 ナースの三十木さんが私の腕を思い切り引っぱった。


「なんで? なんであんなことしたの?」


 誰もいない点滴室まで連れて連れてこられると、尋問が始まった。わからなかった。何故あんな馬鹿なことをしてしまったのか。

 本当なら、注射器を専用の容器に廃棄してから電話に出るべきだった。それか、あの注射器は放っておくべきだった。


「ええっと……ええっと……」


 言葉にならない。頭が働かない。口がうまく動かない。動いているのは、恐怖を誤魔化しきれない両手だけだ。

 震える右手を震える左手で必死に押さえる間抜けな私を、三十木さんはどんな気持ちで見ているのだろう。自分の体も思考も制御できず、ただ言われた言葉をひたすら反芻することしかできない。


 何故? 何故私はあんなことを?


「なんであんな所に置いたわけ? 駄目だよね? 普通に考えて。危ないよね? それはわかる?」

「はい」


 私は咄嗟に返事をした。しかし三十木さんは表情一つ変えずに言った。


「うん。全然わかってないよね。嘘つかないで? わかってるんなら置かないでしょ普通。わかってるのに置いたんなら相当おかしいよあなた。どうしてあんな所に置いたの?」

「――え、ええと、注射器を廃棄しようとして、そしたらカウンターの……カウンターの電話が鳴って、それで――」

「誰が言い訳しろって言った? わかってなかったんだよね。あなたは」


 全身に鳥肌が立っているのは効きすぎた冷房のせいではない。私は完全に返答を誤った。


「……すみません」

「『すみません』じゃなくてさあ。どうするの? あれで院長が何かに感染したらどうするの? 責任取れる? 院長この後も外来あるのに。古見さんが代わりにやってくれるの? なーんの資格も技術も持ってない古見さんが?」


 暫くの間、沈黙が流れた。何か言わなくてはならないのに何も言えない。動揺と睡眠不足とが重なって、頭の中はめちゃくちゃに散らかっていた。脳ミソがグズグズに溶け出して、もう二度と元に戻らないような気さえした。


「自分のしたこと、よく考えなさいよ。最近ちょくちょくミスするし、皆すっごく困ってるんだよ。人手不足だし、新人って言ってももう二年目なんだから責任持って。甘えてられないんだからね」


 何も答えずに硬直する私を見て、三十木さんは冷たくそう言い、どこかへ行ってしまった。その後も私の震えは一時間近く収まることはなかった。



 その日の午後も小さなミスを連発し、私は二十時過ぎまでその対応に追われた。

 帰り際、看護師長とナースの中西さんの話声が偶然耳に入った。


「師長、三十木さんから聞きました? 古見さんのこと」

「聞いたも何も。院長カンカンでほんと大変だったんだから。暫くあの子を院長の視界に入れないようにしなきゃ」

「でもちょっとやばくないですかあの子。今日の午後だってしょうもないミス結構してましたよ」

「確かに、最近なんか変よね。入りたての頃はそうでもなかった気がするけど、仕事に慣れたせいで気持ちが緩んできたのかしら。それとも他に何か問題でも抱えてるとか」

「絶対今度面談とかした方が良いですよ。おかしいですもん。なんか顔色も悪いし」


 何か言った方が良かったのかもしれない。しかし今更何か言ったところで言い訳にしか聞こえないことは嫌と言うほどわかっていた。

 私は音を立てないように気をつけて、二人の会話が終わるのを隠れて待った。挨拶もせずに帰る訳にいかないからだ。

 二人の会話が私からペットの犬の話に移った時を見計らい、物陰から一瞬だけ顔を出して挨拶した。


「えっ。古見さん、まだいたの……?」

「えーっと。夜道、気を付けてね」


 予想外の私の登場に、二人は明らかに動揺していた。私は何も気にしていない風を装い、軽く会釈をしてその場から立ち去った。



 家に帰ってくると、いつものようにバッグからノートを取り出し、今日一日を振り返った。書くべきことは山ほどあるのに、どうしても頭が回らない。ありったけのコーヒーを飲んで頭を覚醒させても、出来上がるのは幼稚園児が書いたようなアンバランスな文字とめちゃくちゃな日本語だけで、自分でも気味が悪かった。


 結局深夜一時を過ぎてもノートは完成せず、私はたまらずベッドに倒れこんだ。死ぬほど疲れているのに、死ぬほど眠いのに、眠れない。睡眠と覚醒の間を行ったり来たりしている内にどんどん窓の外は明るみ、やがて鳥たちの囀りまで聞こえ始めた。

 両手と両足が自分の意思を無視して再びガタガタと震え出した。「昨日」を処理しきれないまま、「今日」が始まろうとしている。飲み込まれる。置いていかれる。眠らなくてはならないのに、もう眠る時間はほとんど残っていない。


 病院に行かなきゃ。

 病院に、仕事に行かなきゃ。


 頭ではわかっている。なのに体はベッドに張り付いたように動かない。全身に力を込め、全力で起き上がろうと頑張るが、うまくいかない。

 ベッドの上で奮闘していると、廊下から誰かの足音が聞こえてきた。私しかいないはずの部屋に、確かに誰かがいた。


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