事故
部屋に戻ってくると、まだ隣室の口論は続いていた。
「もう終わった事だろ。もう何も心配する事はないのに、どうしてあんなこと」
「自分でもわからない。ただこうしなきゃって……」
くぐもった声が薄暗い部屋に重く響いている。
私はキッチンに朝食べ損ねたカップ春雨が置いたままになっていたことを思い出し、お湯を沸かそうとガスコンロの火を点けようとした。しかし、どういう訳か火は点かなかった。
「うそ。何で点かないの?」
故障かと思い首をひねっていると、ふいに誰もいないはずの寝室に人の気配を感じ、背筋が凍りついた。
いつの間にか隣室の口論も聞こえなくなり、耳を済ますと何かが軋む規則的な音だけが微かに聞こえていた。私はそのまま寝室に向かって廊下を歩き続けた。やけに長い廊下だった。歩みを進めるごとに音は大きくなっていった。
外の街灯が点灯し、窓から青白い光が差し込んだ。暗い寝室の天井から、垂れ下がった何かが振り子のように揺れているのが見える。人の足の様にも見えた。間違いない。あれは――
私は駆け寄ってその物体にしがみつこうとした。
「ミ――」
言いかけた瞬間、足元のフローリングがバリバリと音を立てて崩壊し、私は真っ暗闇の中へ真っ逆さまに落下した。
眼下には夜の海が広がり、黒い波がまるで生き物のようにうねっていた。腐臭のような嫌な臭いが鼻をつく。それが死臭だと瞬時に私は理解した。
――あっ、死んじゃう。でも、別にいいや。
私は何の疑問も抱くことなく、覚悟を決めて瞼を閉じた。それが自分にふさわしい結末のように思えたのだ。
黒い水に頭から落ちた瞬間、びくりと身体が跳ねあがり、目が覚めた。
いつの間にか、キッチンの床に座り込んでいた。何が起こったのか訳がわからず混乱したが、すぐにただの悪夢だと理解し、大きく息を吐き出した。いつもと状況が違って動揺したのか、心臓はこれまでにないほど激しく脈打ち、体が震えるほどぐっしょりと冷や汗をかいていた。
時計に目をやると、もう夜中の二時を回っていた。私は急いでバスルームに向かうと、手短にぬるいシャワーを浴び、早く眠らなければとベッドに横たわって瞼を閉じたが、目が冴えてどうしても眠ることができなかった。結局あきらめてキッチンに戻り、気分を落ち着かせようとコーヒーを淹れ、朝が来るのを独り大人しく待った。
ようやく眠気が襲ってきたのは、通勤電車に乗り込んだ時だった。念のために買ってきたエナジードリンクを二本飲み干し、ぼーっとする頭を何とか覚醒させた。さすがに無理があるとわかっていながら。
その日、私は致命的なミスをした。
昼休憩から戻ってくると、外来には誰もいなかった。午後の診察が始まるまでまだ一時間あり、それまで何か仕事を探して動かなければならなかった。
何から手を付けようかと辺りをうろついていると、処置室に使い終わった注射器が置きっぱなしになっているのを見つけた。
――危ないな。すぐに片付ければいいのに……
誰かが手に刺してしまっては大変だと思い、私はすぐに片付けようとした。使い終わった注射器は速やかに専用の容器に廃棄する決まりになっている。
注射器を手に持った瞬間、第二受け付けの内線がけたたましく鳴り響いた。誰かが出てくれるだろうと思ったが、一向に誰も出る気配はなく、静かな空間に無機質な音が響き続けている。
私は注射器を置き、急いでボールペンとメモを用意して受話器を取った。
電話は医事課からで、放射線科に掛けるつもりだったが番号を間違えてしまったとのことだった。ややこしい用件でなくて良かったと胸を撫で下ろした瞬間、処置室から大きな声が聞こえた。
「痛っ!」
声の主は中鉢院長だった。冷たい汗が額に滲む。死ぬほど嫌な予感がした。いったい私は注射器をどこへ置いただろうか。思い出そうとしたが、頭の中は真っ白に塗りつぶされて何も考えられなくなっていた。
「誰だよ! こんな所に注射器を置いたのは!」
院長はプライドが高く、一度怒り出すといつまでたっても機嫌が直らないことで有名だった。そして私はそんな院長の手に注射器を刺してしまったのだ。
「どうしましたか!」
一体いつからそこにいたのか、奥から数人のナース達がわらわらと沸いてきて院長を取り囲んだ。院長は続けた。
「俺はさっきここに注射を置いておいたんだよ。それをどっかの馬鹿が勝手にいじってこんなふざけた場所に置いた。誰だ? 誰がやった?」
逃げ出してしまいたかった。実際、そうした方が良かったのかもしれない。誰も私がやったことを知らない。私は誰にも見られていない。こっそり倉庫にでも逃げて物品の確認でもしていたことにすれば、もしかしたら誤魔化せたのかもしれない。
「私です。本当に、本当に申し訳ございません」
院長を取り囲んでいたナース達が一斉にこちらを向き、「やっぱりそうなのね」とでも言いた気な目でこちらを見る。「はぁ」と院長が呆れ顔で溜め息をついた。
「また、あんたかよ」
マスクの隙間から微かに漏れ出た言葉は、私の頭の中で反響した。