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Lost Inside―取り戻せない日々―  作者: 古見理英
6/23

帰宅

 ようやく一日の勤務が終わり、小走りで駅へと向かう。三十分に一本の電車をギリギリのところで逃し、酔っ払いがホームにぶちまけた吐瀉物を避けながら再び改札を出た。特にすることもないので、近くの油臭いコンビニの中へ入る。どういうわけか、この匂いは嗅いでいるとなんとなく落ち着いて、嫌いになれない。駅前のコンビニやドラッグストアの中に入ると、とても安心する。特に買うものがなくてもいいからだ。ただ電車を待っているという、そこに居てもおかしく思われない理由がある。


 適当に商品棚を眺めていると、缶チューハイが目に入った。こんな日くらいアルコールに逃げたって誰も文句は言わないだろう。そう思い、私は一番安い缶に手を伸ばした。


 ――聞いてくれよ。このオンナがよぉ……


 その瞬間、思いがけず酒臭いクレーマーの顔がフラッシュバックし、私は慌ててチューハイを棚に戻した。ガタガタと大きな音をたてたせいで、他の客が不審な目でこちらを見た。そのじっとりとした視線が、数時間前に見た待合室の患者達と重なって、不快感が一気に全身を駆け抜けた。

 私は何も買わず、半ば逃走するようにコンビニから飛び出した。まるで万引き犯にでもなった気分だった。



 ようやくアパートまで帰ってくると、今度は隣の部屋から男女の痴話喧嘩が聞こえてきた。


「お前が後先考えずに馬鹿な事するからだろ!」

「あの環境に耐えられなかったの! どうしてあんなことしたのか、自分でもわからない」

「なんでもっと早く言わなかった! 言えば良かっただろ! そんなに信用されてなかったのか俺は」


 耳障りな痴話喧嘩が疲れきった頭にガンガン突き刺さる。悪い事とはどうしてこんなにも立て続けに起こるのだろうと思いつつ、私は仕方なくまた部屋を出て、駅前の喫茶店「彗星蘭」に向かった。客のまばらに入った店のドアを開けると、落ち着くジャズのサウンドとコーヒーの香りが疲れきった私を出迎えてくれた。


 私は窓際の二人掛けの席に腰掛けるとコーヒーを注文し、バッグからノートとボールペンを取り出した。

 病院ではその日の振り返りや反省点、新しく覚えた事などをノートにまとめ、次の日先輩に提出する決まりがある。つまり、今日はクレーマーのことを事細かに書き記して、反省点を述べなければならないというわけだ。


「おっ、古見さん久しぶり」


 コーヒーを運んで来たウェイターが馴れ馴れしく私に声を掛けた。


「仕事帰り?」


 彼は木戸くんという。ミサキの中学時代の同級生で、高校時代からずっとこの喫茶店でバイトをしている。元はと言えば、この場所もミサキに教えてもらった場所だった。


「そう」


 私は素っ気なく返事をした。今は、まともに人と話ができる状態にない。

 木戸くんはちらと私のノートに目をやると、何かを察したのか「おつかれさま」とだけ言って立ち去って行った。


 入職したての頃は、こんなノートちっとも苦ではなかった。でも半年を過ぎたあたりから、ただただ面倒くさいだけの「作業」になった。

 仕事内容が増えるに連れ、書く内容もどんどん増えていく。提出用とは別に自分用のマニュアルノートも作らなくてはならないので、容量の悪い私は帰宅してから家事も食事も全部ほったらかしてひたすらノートに向き合う。鬱陶しい眠気は、コーヒーかエナジードリンクで殺す日々。


 これが最低な生活であることはわかっていた。わかってはいるが、どうにもできない。今の時代、私以上に苦労している人なんて掃いて捨てるほどいることくらい知っている。自分だけが不幸だなんて思わないし、思ってはいけないことも知っている。これが私の――私達の日常で、誰にも変えることなんてできない。いつの間にか、そんな風に考えることしかできなくなっていた。

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