温かい墓石
十二月二十日。冬とは思えない温かい日差しのもと、私は所々錆びついた自転車を裏庭から引っ張り出し、ミサキの眠る墓地を目指した。
本当ならミサキの家に連絡を入れなければならなかった。しかしミサキが死んでから暫くして、彼女の両親はこの町から姿を消した。知っているのはお墓の場所だけだった。電話番号はもちろん、どこに住んでいるのかすらわからなかったので、墓石の前に手紙を置いていくつもりでいた。
集落を分断するように敷かれた直線道路をひた走る。ちょうど二年前の冬の日のように。山々は紅く色付き、雲一つない透き通った青空がどこまでも続いていた。
走りながら、私はミサキの一つ一つを丁寧に思い出していた。細くて真っすぐな長い髪、くりくりで大きな茶色い目、日に焼けた肌、第二ボタンまで開いたワイシャツ、短かめスカートからたまにはみ出る何重にも捲られたダサいハーフパンツ、校則違反の青いスニーカー。そして、大きな明るい笑い声。私が何度も注意した、うるさくて下品な笑い声。あの笑い声のおかげで、私は何度も救われてきた。
墓地に着く頃にはすっかり汗だくになっていた。駐車場に自転車を停めると、ミサキの元へと向かった。
墓地には誰の姿もなく、ミサキの元にも誰かが来た形跡はなかった。
「おはよう」
ミサキの墓石に触れる。太陽の光を浴びて、少しだけ温かくなっている。まるで現実感がなかった。この無機質な石の中に、小さくなったミサキが入っているのかと思うと不思議でならない。合わせる顔がないだなんて嘘だ。ミサキはずっとここで待ってくれていたのだ。
今まで来られなくてごめんと心の中で詫び、私があんなこと言わなければ、こんなことにはならなかったの? と尋ねた。当然ながら、返事は返ってこない。死んだ人間と対面したところで、できることなんてたかが知れているのだ。「自己満足」という言葉が頭を過った。
「ごめんね」
結局、それしか言うことができない。言いたいことはたくさんあったはずなのに、ごめんねという謝罪の言葉に全てが飲み込まれてしまうようだった。
花立てを綺麗に洗い、道中生花店で買ってきた青いリンドウの花束を挿す。掃除できるところは全て綺麗にし、ミサキがよく食べていたお菓子とジュースを供え、線香に火をつけたところで、不意に背後から「すみません」と声を掛けられた。
振り返ると、ミサキのお母さん――渚さんが立っていた。二年ぶりに顔を見たが、随分歳をとったように見えた。やせ細った身体に白髪交じりの茶髪、そして目の下には隈ができていた。ミサキの死がここまでこの人を苦しめたのかと思うと、思わず目をそらしたくなる。表情のない顔が少し前の自分の姿と重なり、心臓を握りつぶされたような気になった。
「理英ちゃん……?」
長く垂れ下がった前髪の陰から濁った瞳がこちらを窺っている。
「お久しぶりです」
私は立ち上がって頭を下げた。渚さんはうっすらと微笑んで「元気?」と尋ねた。
どうだろう。今の私は元気なのだろうか。二年前と比べれば明らかに元気はない。でも、渚さんの顔を見ていると自分なんて全然弱っていないように思えてくる。この人の方が、きっと私より何倍も弱っているに違いなかった。
「元気です。ごめんなさい。色々勝手にやってしまって……」
「ううん。良かったね、ミサキ。お友達が来てくれたよ」
渚さんはそう言って墓石に優しく笑いかけた。
「こちらこそごめんね。ミサキが死んだ時、何も言ってあげられなくて。お葬式にも呼んであげられなかったでしょう」
「いえ、だってそれは――」
私は言いかけてやめた。
もしあの時葬儀に呼ばれていたら私は顔を出しただろうかと考えた。
もしかしたら行かなかったかもしれない。会わせる顔なんてないのだから。
「あの、私……色々と話さなければいけないことがあって……むしろ謝らなきゃいけないのは私の方で……」
「奇遇だね。私も理英ちゃんには話しておかないとって思ってたことがたくさんあるの。この後、時間大丈夫かな」
墓参りの後、私たちは渚さんの車で彗星蘭へ向かった。渚さんが私の知っているお店で話そうと言ってくれたのだ。木戸くんやマスターのところに顔を出しておきたかったし、あそこでなら落ち着いて話ができるような気がした。
昼時の彗星蘭にはまばらにお客さんが入っていた。安心したように微笑むマスターに奥の席へ案内され、渚さんは紅茶を、私はホットレモネードを注文した。
私は木戸くんの姿を探したが、今日は休みなのかどこにも姿が見当たらなかった。代わりに見慣れない顔の女性が来て、レモン水を二つ置いていった。
レモン水にレモネードじゃレモン尽くしじゃないかと考えていると、渚さんがおもむろに口を開いた。
「私ね、理英ちゃんにお礼言わなきゃってずっと思ってたの」
「お礼? どうしてですか?」
「あの子が高校生活を楽しく送れたのは、理英ちゃんのおかげだから」
渚さんの言葉が心臓に突き刺さった。確かに、ミサキは毎日楽しそうではあった。けれどそれは、私が楽しそうにしているミサキしか見ようとしていなかったからだ。そしてそんな高校生活を壊したのは、他でもない――
「違います。違うんです! 私は……ミサキに酷いことを言ったんです」
私は、今まで胸の内に秘めていた全てを渚さんに話した。ミサキと同じ立場にいるような人達を悪く言ったこと、そしてあの人身事故の日にミサキに言ったことを。
渚さんはただ、うん、うんと相槌を打って聞いていた。
「知らなかったとはいえ、すごく軽率でした。私がミサキの事をもっと知ろうとしていたら、他人に対してもっと思いやりを持っていれば、こんなことにはならなかったんじゃないかと考えると、本当に何と言ったらいいか。ミサキがいなくなってすごく悲しいはずなのに、ミサキの為にすることや思うこと全てに不純物が混ざっているような気がしてしまって、だから――」
「待って、理英ちゃん」
そこまで話した時、静かに聞いていた渚さんが突然言葉を遮った。
「まさか、ずっとそんな風に思っていたの……? 自分一人のせいだって」
ぷつりと会話が途切れた。私がおし黙っていると、ウェイターの女性がやってきて紅茶とレモネードをテーブルに置いていった。
「……あのね、そもそもあの子が苦しんでたの、私の責任でもあるの」
渚さんはミルクも砂糖も入っていない紅茶を一口飲み、話し始めた。
「私、ミサキ対してかなり厳しくしてたの。小さい頃から色んな塾や習い事に通わせて、中学の時は生徒会長までやらせたりして。それでいじめられるようなことがあっても、『そんなやつらに負けちゃダメ』とか、『逃げたらきっと後悔する』とか言って、学校に通わせてたのね。自分の学生時代がすごくいい加減なものだったから、同じような教育じゃダメだと思って。ミサキ、最初は『辛い』とか『行きたくない』とか言ってたんだけど、そのうちなんにも言わなくなっちゃった。泣くことすらなくなった。本当はそこで気付くべきだったの。でも私は『もう辛くなくなったんだ』、『強くなったんだ』って思っちゃったのね……」
また、私の知らないミサキが語られている。そう思った。
「安心してた矢先、あの子は自分の太股をカッターで深く切っちゃって、病院に運ばれたの。第一志望の高校に落ちちゃったのがきっかけだったけど、きっと今まで溜め込んできたものが爆発しちゃったんだと思う」
「自傷ってことですか……」
ふと、ミサキが真夏でもスカートの下にハーフパンツを履いていたのは脚の傷を隠すためだったのかもしれないと思った。
「うん。そこでやっと気が付いたの。ミサキは私の想像してる以上にボロボロだったんだって。無理もないよね。すごいストレスを一人で抱えて、戦ってたんだもん。高校に入学してからも夢の中にいじめっ子が出てきて眠れなくなったり、唐突に死にたくなったり、涙が止まらなくなったり……」
「全然、知りませんでした」
「あの子はあまり自分の事を話さないから。後ろ向きな事は特にね。夫や友達は私のせいじゃないって言ってくれるけど、私がそうやってミサキを育ててしまったんだと思う」
自分はミサキについてほとんど何も知らなかったことを、改めて思い知らされた。あんなに近くにいた親友の存在が、とても遠いものに思えた。




