カフェイン
木戸くんに車で送ってもらい、何とか病院までたどり着いた。あらゆる検査を受け、医者から当然のように告げられたのはカフェイン中毒だった。
点滴室のベッドで、空っぽの胃からせり上がってくる胃液を吐き出しながら、カフェインが分解されるのを待つ。その間脳裏に浮かんだのは、ナースエイドだったときに対応した酒くさいクレーマーと、駅のホームにぶちまけられた吐瀉物、そして昨夜の情けない自分の姿だった。
ナースたちにまるで赤ん坊のようにあやされ、居たたまれない気分になった。絵に描いたような優しさが返ってつらいのだ。
一体、いつから自分は助ける側から助けられる側になっていたのだろう。いつから嫌悪する側からされる側になっていたのだろう。
「理英。生きてる!?」
隣町に住む母が大袈裟に叫びながら駆け付けた。父親との不仲や実家暮らしはナメられるという思いからこれまで距離を置いてきたのだが、その声を聞いた瞬間、たまらなく実家に帰りたくなった。
「お店でブッ倒れたって本当なの? さっき店員の男の子が話してくれたけどね、理英を放っておくのは良くないんじゃないかって」
あんまり大きな声で騒ぐので、私は自分の口の前で必死に人差し指を立てた。
「別に大したことないから」
「明日の仕事は休みなさいよ?」
「お母さん……私もう仕事してない」
「何? してない!? 辞めちゃったってこと?」
「厳密に言うとクビかな」
自分の口からそう告げた瞬間、思わず泣きそうになった。
「へぇー!?」
一々リアクションの大きい母は大きな目を更に大きく見開いて、上ずった声で叫んだ。
「ちょっと何で黙ってたの! メールでは大丈夫だって言ってたのに。働いてないってことは、アパートにもいられなくなるってことじゃないの。嫌だわもう嘘つきなんだから。失業手当とかあるんでしょ? 離職票捨ててないでしょうね? っていうかあんた、保険証の手続きしてないんじゃないの!?」
母の言葉に、出かかった涙は一瞬にして目の奥に引っ込んだ。
体調が安定すると、私は強制的に母の車で実家まで送られた。母は、私がアパートに帰ったらまたコーヒーやエナジードリンクをがぶ飲みしてしまいそうで怖いと言って聞かなかった。
車の中で私は必死に感情を押し殺していた。気を抜くと不意に涙が出そうになる。心配した母がどうしたのかと尋ねてきたが、理由なんて言えるはずもなかった。今まで散々アルコールに依存するような人間を嫌悪してきたのに、自分はカフェインに依存していたのだ。
ミサキがいなくなってからというもの、自分の過去の言動を責め、罪悪感から何度も悪夢にうなされ、いつも彼女の事を考えていた。それで自分の知らなかった他人の世界を理解したつもりでいた。それも上っ面だけだったということなのだろうか。あの時、私は自分の中の気持ちを改めたのではなかったのだろうか。ミサキの死を通して学ぶことがあったはずだ。私はまだ自分の中の不安や後悔の扱いを改めることができていない。私は変わったようで、何も変わってはいない。
家に着くまでの間、私はひたすらそんなことを考えていた。
「お母さん。今日、何日だっけ」
車が交差点で停車した時、私は唐突に尋ねた。
「十日だけど」
「……何月?」
わかってはいたが、聞いてしまった。自分の頭に刻み込む為に。
「十二月じゃない! ちょっとしっかりしてよね」
「そっか。十二月……そうだよね」
十二月十日。十二月二十日まで、あと十日。ミサキの命日だ。去年は仕事で疲れきっていて行けなかった。いや、行けたかもしれない。行けたのに行こうとしなかっただけかもしれない。行きたくなかっただけかもしれない。逃げてしまっただけかもしれない。あれから足を運ぶ機会は何度だってあったのに、私はそれを避け続けてきた。自分を責める一方で、現実から逃げ続けていたのだ。
会いに行こう。今年こそは、絶対にミサキに会いに行こう。
信号が青に変わり、母がアクセルを踏み込んだ。
命日までの十日間、私は実家でおとなしく過ごした。猿や猪が頻出するような山中の小さな集落だ。落ち着く場所だが、何もない。五六歳の母は今年で九〇になる祖母と愛猫のマルを世話しながら生活している。
「さっきまでべったら曇りだったのに、急に晴れちゃってまあ~」
よく晴れた昼下がり、物干し台の上でマルを撫でていると母が洗濯物を干しにやって来た。カフェインの摂取を減らしたことによる離脱症状で頭が痛かった。
「お父さんがいなくて良かったわ。いたらきっとめんどくさかったでしょ」
そう言ってしわを伸ばす。湿った衣類から柔軟剤の匂いがした。私が子供のころから変わらない、甘ったるい匂いだ。
海外へ出張中の父は、二年半くらい前から殆ど家に帰って来ない。向上心に溢れ、仕事熱心で真面目な人間だが、肩書で他人に優劣をつける癖があった。二浪してなんとか良い大学を出たらしいが、頑固というか、古くさいというか、とにかく昔から私とはあまりウマが合わなかった。私が大学へ進学する時も逐一口を挟み、第一志望だった大学の願書も勝手に破棄してしまったくらいだ。
そんな父が「娘が仕事をクビになってニートになった挙句カフェイン中毒で病院に運ばれた」なんて知ろうものなら、きっとショック死してしまうに違いなかった。
そもそも、病院で働いていることすら父には内緒にしていたのだ。今頃、父は異国の地で、私が自分の進めた大学へ通っているものだと信じて仕事に勤しんでいることだろう。
「本当の事聞いたら卒倒するかもね」
私はすやすやと寝息をたてるマルを見ながら言った。
「まったく……いずれバレる嘘なんだからね」
「平気だよ。その頃には、お父さんもう私に興味無くしてるだろうし。向こうで結構重要な仕事任されてるんでしょ」
「そうだけど、就職の時期になったらまた色々口挟んでくるでしょ。あの人も昔色々あったみたいだし」
「そしたらもう、今度こそ遠くへ逃げる。絶対に来られないようなとこへ」
思いつきでそうは言ったものの、どこへ逃げるかなんて具体的なことは何一つ考えていなかった。むしろ、どこにも逃げられないし、逃げてはいけないような気さえした。
「あーあ。こんなに頭の悪い大人になる予定じゃなかったのに……」
私は独りごとのように呟いた。
「そんなこと言ったってしょうがないじゃない。もうなっちゃったんだから。――っていうかあんたねえ。自分がどれくらい弱ってるか気付いてないでしょ」
「は……?」
「心を病んでるってこと」
唐突に投げかけられた言葉に、少し頭が混乱した。
心を病んでいるとは。
「別に、自傷とかしてないし、自殺しようとも思ってないけど? いじめられたわけでもないし。まあ、クレーマーには好き勝手言われたけど……」
「そんなことしてなくたって苦しんでる人だっているわよ。これ言うなって言われてたけどね。病院まで運んでくれた子、あんたが日に日にやつれていってるって心配してたよ。様子がおかしいから気にしてあげてくれって。あたしも病院であんたの顔見てびっくりしちゃった。一瞬ゾンビウィルスに感染したのかと思った。今度あの子に顔見せに行きな。電話だけじゃなくて」
「ええ……そんなに変わってないと思うけど。病院に勤めてる頃、もっとやばそうな人なんていっぱいいたし、それにミサキだって――」
私が言うと母は大袈裟にため息をついた。
「やだ。もしかしてあんたの基準って、全部ミサキちゃんなの? そういうのはね、他人と比較して結論付けるようなもんじゃないの。あんたが何も苦しくないって言うならもうそれでいいけどね、他人と比較せずに自分を測りなさいよ。あんたはあんたでしょ」
何かすごく真っ当なことを言われたような気がしたが、私は急に眠くなってしまい、母の言葉にあくびで返事をするのが精一杯だった。




