幸福な偶然
「おい、バターはどこだ!」
「申し訳ありません。あちらのお客様の分で最後です」
店員がナンナの方を手のひらで差しながら言った。老人は顔を真っ赤にする。
「何だと! わしはわざわざ隣町から来たんだぞ! ここまで来るのにかかった馬車代を弁償しろ!」
「お客様、他の方々のご迷惑になりますので、お静かに……」
声を張り上げる老人を、店員はなだめようとした。だが、老人はさらに逆上する。
「大体この店の品ぞろえが悪いのがいけないんだろう! 責任者を出せ!」
老人は、周囲の買い物客が迷惑そうにするのも構わずに喚いた。しまいには、ハラハラしながら成り行きを見ていたナンナにまで突っかかってくる。
「小娘、そのバターをわしに寄越せ」
「えっ……?」
言われた事の意味が分からずに、ナンナは呆然とする。老人が怒りを込めて繰り返した。
「バターを寄越せと言ってるんだ! 老人はいたわれ! お客様は神にも等しいんだぞ!」
訳の分からない理屈を並べながら、老人はナンナからバターをひったくろうとした。自分だって客なのに、という反論が浮かんでくるよりも先に、ナンナは彼の憤怒の形相に怯えて商品を手放そうとする。だが、老人がナンナに暴力を振るう前に、その萎びた腕を日に焼けた大きくて逞しい手が取り押さえた。
「こんな神様なら、私は崇めたくないですね」
冷淡な声が聞こえてくる。茶色の双眸で老人を睥睨する青年を見て、ナンナは息を呑んだ。
「な、何だ、お前は」
青年の険しい視線に、老人はたじろいだ。青年は「誰でもいいでしょう」と冷たく返す。
「もうどこかへ行きなさい。これ以上の乱暴は、私が許しませんよ」
青年が老人の腕を掴む手に力を込めた。彼の力を持ってすれば、老人の枯れ枝のような腕など折る事は容易いだろう。老人もそうと気が付いたようで、顔が強張る。
「や、やめろ。そんな事をしても良いと……」
「ナンナさんのためなら、そのくらいの事はしてみせますよ」
青年は無感動に言い捨てて、老人の襟首を掴んだ。恐怖の表情を浮かべる老人を引きずって、青年は入り口の方に向かう。きっと、そのまま放り捨てるつもりだろう。
「ナンナさん!」
しばらくして戻ってきた青年は、先程とは別人のような、朗らかな顔をしていた。子犬のようにはしゃいだ仕草で、ナンナを抱きしめる。
「ナンナさん……会いたかった……」
「イアンさん……私も」
ナンナは微笑んで、イアンの大きな体を包み込み返そうとした。だがその前に、彼ははっとしてナンナから離れる。
「ご、ごめんなさい、ナンナさん。こんな時なのに、密着したりして……」
「ああ……そうだったわね」
ナンナは肩を落とした。非常事態宣言下では、婚約者とのスキンシップもままならなくなってしまうのか。