買占め
父の話を聞いてからと言うもの、ナンナは屋敷から出ずに、自宅で過ごす日々を送っていた。元々家でのんびりと本を読んだり絵を描いたりするのが好きだったナンナは、その事には大して苦痛を覚えなかった。
だが、ノーラは違ったようだ。かつては毎日のように外に遊びに行っていた彼女は、現在の状況が明らかに不満らしく、いつ見てもぶすっとした顔をして、不機嫌そうだった。「遊びに行きたい」としょっちゅう零しており、その度にナンナは「我慢するのよ」と彼女をなだめた。この日も、二人は朝食の席でそんな会話をしていた。
「だってえ、暇なんだもん」
いつも通りにナンナがノーラの事をたしなめると、ノーラはスープをスプーンでかき回しながら、面白くなさそうに言った。
「そんなこと言ったって、どこに行くって言うの?」
グラスを傾けながら、ナンナはかぶりを振った。
「劇場もレストランも皆休業してるのよ。行くところなんてないじゃない」
「だからつまんないって言ってるの!」
ノーラは、パンに塗るバターが入っている入れ物を開けた。そして眉をひそめる。
「ちょっと、空じゃない」
「申し訳ございません、ノーラお嬢様」
部屋の隅に控えていた一家の家令を務めている初老の男性、ギルバートが素早く前に出てきて謝った。
「ただいまバターは品薄でして……」
「えっ、何で?」
「それが……どうも買占めが起こっているらしいのです」
ギルバートが嘆息した。
「バターだけではありません。その他の食材や日用品も、皆さんが必要以上にお買い求めになっていらっしゃるようです」
コルヌール家は、貴族といえどもそこまで大きな屋敷に住んでいる訳でもなく、使用人の数も少なかったので、必要なものは町にある商店に出向いて揃えていた。そのため、買占めが起こると、こんな風に用意できないものも出て来るらしかった。
「じゃあ……遊戯室の燭台の蝋燭が短くなったまま替えられてないのも、書庫の机が壊れたまま放置されてるのも……」
「ご不便をおかけいたします。何分、材料がそろわないものでして」
ギルバートが慇懃に頭を下げた。ノーラが訝しむ。
「皆、買い占められちゃったってわけ? 何でそんな事になってるのよ」
「どうやら、悪質なデマが流れているらしいです」
ギルバートはやれやれといった顔になる。
「非常事態宣言が出されたせいで、あれもなくなるぞ、これもなくなるぞ、早く買っておかないと、他の奴らに横取りされてしまうかもしれない……といった具合です。皆さんが必要以上にものを買いだめするようになったせいで、市場からは商品が消えて、本当に必要な方の元に届かなくなったのですよ」
「馬鹿な事する人たちもいるのねえ」
ノーラが呆れたような声を出すのと同時に、食堂に一人の使用人が入ってきた。彼女は何かギルバートに耳打ちする。
「お嬢様、朗報です。ヨキ商店で、これからバターの販売を行うらしいです」
ギルバートは目を輝かせて、使用人に命令した。
「よし、屋敷中の使用人を集めろ! 何としてでも、バターを手に入れるんだ!」
「ギルバートさん、どうやら一家族一箱までしか買えないらしいですよ」
バターを買いだめる気満々のギルバートに対し、使用人が釘を差す。先程買占めをしている者たちに苦言を呈したばかりだというのに、同じ行為をしようとしているギルバートを、ノーラも責めるような目で見た。
「それに、もっと危機意識を持て」
今までのやり取りが聞こえていたらしい父のヨハンが、廊下からひょっこりと顔を出して口を挟む。
「そんなに大人数で外出してはいかん。私がくじを作るから、そこで選ばれた者だけが行くんだ」
「これは申し訳ありませんでした」
ギルバートは恐縮した様子で下がった。