悪の夜明け
「それは困りましたね」
イアンは、ナンナの言葉を分かっているのかいないのか判断しかねるような声色で言った。
「という事は、このままですと、私たちは一生追いかけられる事になりそうですね」
「心配しないで。いい方法があるわ」
ナンナはにっこりと笑った。
「皆、『悪』を持ち合わせているって、あの人たちに分からせればいいの。それに、隠しているから恥ずかしく感じてしまうんだわ。皆がもっと大々的に『悪』を出せるようにして、誰も彼もが悪魔になってしまえばいいのよ」
「つまり……?」
「このまま、デートしましょうって事」
ナンナは、イアンの髪を指先で弄ぶようにして梳いた。
「私たちの悪魔を、皆におすそ分けして回るの。全員が悪魔になれば、もう『悪役病』なんて区別の仕方もされる事はないわ。だって、『悪役病』にかかっている事が普通になるんだから。『悪』が隠される事もなくなるわ」
「ほう、それは……」
イアンが目を眇めた。
「面白い考えです」
「そうでしょう?」
自分だけではなくあらゆる人々が『悪』だったと分かれば、きっと皆は安心するだろう。変身したナンナをイアンがすぐに受け入れたように、誰もが同胞を愛する素晴らしい世界になるに違いない。
二人は駅前の広場に入った。ここを抜けた先には、町が広がっている。自身の中に潜む魔性の『悪』を、ひた隠しにする人々が住む町だ。二人には聞こえてくるようだ。その隠匿された『悪』たちが、早く解き放ってくれと切望している声が。
もしかすると、『悪役病』というのは仮面だったのだろうか。長年人々の中で押し隠されてきた『悪』が、とうとう堪えきれなくなって、一気に外側へと出て行っただけで、どこからともなくやって来た悪魔の仕業などではなかったのかもしれない。言わば、悪魔の元の住処は、その人自身の中だったという事なのだろう。
同調圧力によって殺され、宿主からも愛されず、光の当たらない場所に押し込められていた気の毒な悪魔たち。ナンナはこの妄想に耽溺し、長年不遇をかこっていた悪魔に同情した。
しかし、そんな悪魔がやっと日の目を見る事が出来るのだ。二人が町に足を踏み入れた瞬間から、全ては変わってゆくはずだ。『悪役病』などという仮面をつけずとも、『悪』を発揮できる毎日が訪れる。
ナンナとイアンは、不気味に静まり返った町へと辿り着いた。けれども、耳を澄ましてみれば興奮した囁きが聞こえるかもしれない。それは言うまでもなく、反逆の狼煙が上がった事を察知した悪魔たちの笑い声だ。
青一面の空に暮れ時の冷たい風が吹き、茜色が流れ込んでくる。もうすぐ夜が訪れるのだ。だが、悪魔にとっては、それは夜明けの合図だった。古いものが死んで、新たなるものが生まれてくる。
今日という日は、その序章となるのだろう。かつては想像だにしなかった胸躍る日々の幕開けを予感して、始原の悪魔たちは淡い微笑を漏らした。




