罹患
「あいつは『悪』だ。最低の男なんだぞ。お前には相応しくない」
(イアンさんは『悪』……)
それは、悪魔に憑かれているからだ。だが、今のヨハンは、彼の心根も悪しきものだと認識しているような気がする。つまり、元々が『悪』だったと言っているのだ。そして、そんな男は『善』なるナンナには、不釣り合いだと考えている。
だが、ナンナはすでに、人間は『善』でもあり、『悪』でもあると知っている。そのどちらか一方だけなどという事はない。ただ、『善』と『悪』のどちらの部分が大きいかというだけの違いだ。
(でも、お父様の中では、イアンさんは『悪』なんだわ)
イアンが『善』の心を捨て去った訳ではないと、どうすればヨハンに理解してもらえるだろう。今の彼は『悪』が肥大してしまっただけの、ごく普通の状態だと、何とかして分かってもらわなければならない。そうしなければ、ヨハンにとって『善』のナンナは彼と引き裂かれてしまう。
(……いいえ。違うわ)
ふと、ナンナは思い付いた。
どうしてこんな簡単な事に気が付かなかったのだろう。父に、イアンが完全な『悪』ではないと信じさせるよりも、もっと良い方法があるではないか。『悪』のイアンを『善』のナンナに寄せるのではなく、『善』のナンナが『悪』のイアンに寄っていくのだ。つまり、ナンナが変身を遂げればいいという訳だ。
(私も、『悪』になる……)
ナンナはこの思い付きを、奇妙な事に変だとは思わなかった。
――悪魔になるかならないかは、自分で決められると思いませんか?
イアンだって、そう言っていたではないか。自分はなろうと思えばなれるのだ。悪魔に変身すれば、自分はイアンと同じになれる。彼の傍に、これからもいられる。
どうすれば悪魔になれるのか、ナンナはすでに知っている気がした。『善』の面を捨てるのではなく、ただ心の大部分を『悪』が占めるようにすればいいだけだ。難しい話ではないだろう。人間は簡単に悪魔になってしまえるという事を、ナンナはとっくに悟っていた。
「ねぇ、お父様」
ナンナは薄い笑みを唇に乗せながら口を開いた。自分の目が完全に据わってしまっていると、ナンナは気が付いていない。
「私、お父様みたいな頭の固い方にはついていけません。これっきりで縁をお切りしたいのですが」
「何?」
ヨハンは、我が耳を疑ったようだ。ナンナはその驚きっぷりがおかしくて、吹き出した。
「私は、もうコルヌール家の者ではないという事ですよ、ヨハンさん」
「……あの男からうつされたのか!」
ヨハンは愕然とした顔になった。




