当面はイチャイチャするのも自粛です
「良いか。これからは人との接触を最小限に抑えるんだ」
ヨハンが厳しい声で言った。
「遊びに行くなんてもっての外だぞ。外出は、どうしても必要な用件がある時だけにしておくんだ」
「あの、お父様、一つよろしいでしょうか」
ノーラがまた不満を垂れ流す前に、ナンナは小さく手を挙げた。
「その悪魔から、身を守る方法はないのでしょうか?」
「良い質問だ」
ヨハンが頷いた。
「この悪魔は、アルコールの類を苦手としているようだ。と言っても、飲むのではなく、手に塗るのが効果的だとか。それに奴は、人の目には見えない状態で辺りを漂っているらしくてな。口や鼻を露出していると、そこから入り込んでくる場合もあるとか。出掛ける時は、マスクをするようにとの事だ。また、石鹸で手を洗うのも肝心だ。時間をかけて丁寧に、指の間や手首も忘れずにな」
「この悪魔、体の中にまで入ってくるの? それにしても石鹸に弱いなんて、変なの」
ノーラが笑った。
「後は十分な睡眠と、栄養のある食事だな。健康な者には、悪魔も近寄りにくくなるんだろう。……ノーラ、お菓子ばかりでなく、これからは野菜も食べなさい」
「はーい」
ノーラは長い金髪を指先で弄びながら、気のない返事をした。
父から話を聞いたナンナは、すぐに自室に籠って手紙を書き始めた。
『イアンさんへ
非常事態宣言が出された事、もうお聞き及びでしょうか。これからは、あまり外出をしてはいけないそうです。当分はイアンさんとも会えなくなるんですね。
寂しくなりますが、『悪役病』から身を守るためには、仕方のない事だと思います。悪魔は石鹸に弱く、健康な方には憑りつきにくいそうです。イアンさんもこまめに手洗いをして、沢山寝て、ご飯をきちんと食べてくださいね。
非常事態宣言が解除されたら、また二人で遊びに行きましょう。それでは、お元気で。
愛を込めて ナンナより』
ナンナは宛名のイアンの名前のところに軽く口付けると、頬を染めながら手紙を便箋に入れた。
イアン・モーティマーは、ナンナの婚約者だった。厚みのある体と高い身長を持つ、よく日に焼けた偉丈夫で、黒髪と茶色い目の、きりりと引き締まった顔立ちが特徴の美形だ。
ナンナとイアンは、周囲から相思相愛と羨ましがられる仲だった。自然の好きなイアンは、気候の良い季節になるとナンナを様々な場所へ連れて行ってくれる。そうでない時は、読書の好きなナンナが、旅行記を彼の所に持って行って、次はどこに出かけようかと相談するのだ。
イアンといる時間は、他の誰と過ごす時よりも楽しく、輝いていた。この間も、高原にある湖までピクニックに行ったばかりだ。ナンナは本棚からスケッチブックを引っ張り出して、その時に描いた絵を見つめた。日差しを受けて煌めく湖を背景に、イアンが小鳥と戯れている絵だ。
絵の中のイアンを見つめている内に、ナンナは胸がきゅうと締め付けられるような、切ない気持ちになってきた。一目で良いから、本物のイアンの顔が見たくなってくる。当分は会えないと思うと、余計に思慕の念に駆られた。出来る事なら、今すぐに屋敷を抜け出して、彼の所へ行って、その広い胸に飛び込みたい。
(……だめよ、ナンナ。我慢するの)
しかし、その衝動をナンナは無理に抑え込んだ。この悪魔は狡猾で、憑りついてもすぐには毒牙を向けずに、様子見をする事があるらしいのだ。
つまり、何の症状も出ていない人が、すでに感染している可能性だってあるのである。もしかしたら、自分がそんな状態かもしれないのだ。そんな時にイアンと会って、彼にも『悪役病』をうつしてしまったら、取り返しのつかない事になる。愛するイアンの身を守るため、今は辛抱の時だ。