ナンナの判断
(イアンさん……)
ナンナはあまりの事に脱力して、床にへたり込んでしまった。ふにゃふにゃになった指先に力を入れ、手紙を目の前に持ってくると、もう一度最初から読み直した。
だが、何度読んでも内容は変わらない。イアンは弟のパトリックのため、身の危険も顧みずに、悪質な連中の懐へと飛び込んでいったのだ。
ナンナは、イアンが馬鹿な事をしたとも、愚かだとも思わなかった。彼もきっと、何もせずに待っている事は出来なかったのだ。ナンナには、イアンの気持ちがよく分かった。
(私……どうしたらいいの……)
ナンナは、イアンがくれたネックレスを握りしめながら震えた。イアンに迫った危険は、投獄されるとか、『悪役病』に感染するとかだけではない。もしかしたら、自分たちの邪魔をされた事に怒ったその連中に、怪我を負わされたり、最悪、殺されたりする事もあるのではないだろうか。
彼らが一体どんな思想の持ち主なのかは分からないが、『悪役病』に感染したイアンの父が同調するような相手なのだ。どんな恐ろしい事をしでかしても不思議はないように、ナンナには思えて仕方なかった。
こんな時なのに、ナンナは祈る事しか出来ない。祈りは悪魔を退散させるのには少しくらいなら役に立つかもしれないが、イアンの身を守る事に関しては、一体どれほど貢献してくれるだろう。神様は、イアンを助けてくれるだろうか。だが、今は『悪役病』のせいで、猫も杓子も神頼みしているような状態だ。そんな中で、神様はイアンを見守る余裕なんてないかもしれない。
(だったら私が……)
激しい動悸を感じながら、ナンナは立ち上がった。今の状況は、他のどんな事よりも、黙って傍観してはいられない事態のように感じられた。すぐにでもイアンの傍に行って、彼の役に立たねばと思ったのだ。イアンの身を案ずるあまり、ナンナはそれが正しい判断なのかどうか、冷静になって検討しようなど考えもしなかった。
ナンナは母に作ってもらった花柄のマスクをつけ、部屋に備蓄していたアルコールを手に塗って、部屋から出た。外出しようとしているのが丸わかりの格好だが、屋敷の中では誰ともすれ違わなかったので、その事を咎められはしなかった。
それでも、食堂の傍を通る時にちらりと父の姿が見えたのには、胸が痛んだ。ノーラを解放するのに多額の保釈金を払ったばかりだというのに、自分まで同じ事をしたら、父は何と思うだろうか。
それに、ナンナも外から悪魔をうつされて、ノーラのように『悪役病』にかかってしまったら、父だけでなく、母も嘆くだろう。ギルバートの頭痛の種を増やし、使用人の不安をさらに煽ってしまう事にも繋がりかねない。だが、強い決意を胸に秘めたナンナは、今さら踵を返す気にはなれなかった。
(……大丈夫よ。『悪役病』のノーラの世話をしている使用人ですら、まだ感染していなんだもの。すぐに帰ってくれば、私が悪魔に憑かれるなんて事、ある訳ないわ)
外出禁止令を破ることについても、警邏隊が駆けつけてくる前に退散すればいいのだと考える事にした。
ナンナは努めて最悪の事態など起こらないと思う事にしたのである。つまり、何か危機が差し迫った時の多くの人と同じように、自分だけは大丈夫という、根拠のない判断に身を任せる事にしたのだ。




