白紙の便箋
(そんな……何て事なの……)
『悪役病』の最前線で戦っていたイアンの父は、ついに悪魔の毒牙にかかって倒れてしまったのだ。しかも、危険思想にまで目覚めてしまったらしい。そんな状態だったのなら、手紙など書いている暇がなくとも当然だ。ナンナは何も知らずに、イアンに返事を催促する内容の手紙を出そうかと検討していた自分を恥じた。
だが、過酷な状況にあっても、イアンはナンナの身を案じてくれているのだ。そして、自分がナンナの助けになれない事に対して、申し訳なく思っている。その事に、ナンナは胸を打たれた。大変な立場にいるイアンを助けられないのは、自分も同じだ。だが彼は、ナンナを責める気はまるでないらしい。その優しさに心が震え、ナンナは涙を零した。
ナンナは、新しい便箋を机の引き出しから取り出した。そこに、「何も気にしないでください」といった類の言葉を、返事として書こうとした。
だが、ナンナはそれを思いとどまった。今手紙を送れば、イアンは前回の返事が遅れてしまった事を反省して、出来るだけ早く返信しようとするだろう。
しかし、それはイアンの負担になってしまう。今の彼はすでに色々な事で手一杯のはずだ。それに責任感の強いイアンは、父がいない間のモーティマー家を守る事にも心血を注ぐだろう。ただでさえそれだけのものを背負っているのに、今手紙を出したりしたら、そこに返事を書く事などという些事を付与してしまう羽目になる。
(……できない)
ナンナはペンを手放した。他ならぬ自分が、イアンの重荷になる事などできない。手紙を書くにしても、彼の身辺の混乱が収まるのを待ってからにするのが正しい選択だろう、とナンナは思った。
真っ白の便箋を机に置きっぱなしにして、ナンナはソファーにもたれ掛かった。手持ち無沙汰のままに視線をさまよわせていると、鳥と目が合う。鳥は、止まり木に棒立ちになった姿勢で、「手紙、出さないの?」とでも言いたげに首を傾げた。
「当分はね」
ナンナはそれに返事した。
だが、喋りもしない鳥に返事するなんて事がおかしく感じられて、ナンナは失笑してしまった。どこか虚しく、その笑い声は部屋に響く。




