広がる魔の手
ノーラが発症から二週間が経った。相変わらず、彼女は悪女のままだ。ノーラの症状は、悪化はしていないようだったが、かと言って、良くなってもいない。
それに、世話人たちには尋常でないストレスがかかっていたようで、ついには夜逃げする者も現れてしまった。その事が判明した翌日、使用人を束ねる立場にいるギルバートはヨハンに平身低頭して謝ったが、ヨハンは彼を責めなかった。
また、ヨハンも中々大変な立場にいた。ヨハンは外務副大臣補佐官を補助する職務についているのだが、身内から『悪役病』の患者が出たと判明した途端に、別の役職に回されるという話が持ち上がったのだ。所謂窓際の部署であり、そこに配属される事は左遷を意味している。
そのあまりの理不尽な扱いにヨハンは憤慨し、現在は何とか配置換えを回避するための根回しの真っ最中であった。
ナンナはと言えば、目下のところの心配は、イアンからの手紙の返事がまだ来ていないという事だった。いつもは三日と置かずに連絡をくれていたのに、どうした事だろうか。
イアンの存在はナンナにとって、心の支えだった。妹の事も家の事も父の事も、確かに先行きが見えずに不安だったが、それでもイアンの事を思う事でナンナは勇気をもらっていたのだ。
だと言うのに、今はその拠り所を頼れなくなっている。心の奥に空虚な穴が広がってゆくような、虚ろで不安定な気分だった。返事をくれるようにという旨を記した手紙を書こうとしても、すぐにペンが止まってしまって、結局は文章とも言えない書きなぐりが増えてゆくだけであった。
だが、枯れた花のように萎れた毎日を過ごしていたナンナが、ついに復活する日が来た。ようやく、イアンから手紙が届いたのだ。
イアンからの書を携えた鳥の姿を窓の外に探すのが、いつの間にか癖になっていたナンナは、初めにこちらへと羽ばたいてくるイアンの伝書鳥の姿を見た時、息をするのも忘れた。
あんなに待っていたはずなのに、最初に考えてしまったのは、これは幻ではないか、という事だった。あまりに返事を待ち望み過ぎて、幻覚を見たのかと思ったのだ。
だがそれは、目の錯覚などではなく、現実の鳥だった。ナンナは歓喜のあまり泣きながらイアンの使者を部屋に入れ、浅い呼吸を繰り返しながら、震える手で手紙を鳥の足から外した。
しかし、その内容を見てナンナは凍り付いた。
『ナンナさんへ
ずっと返事を書けずに申し訳ありませんでした。実は、少しバタバタしていたのです。
というのも、私の父が『悪役病』にかかってしまったからです。そのため、教会にある司祭の執務室に軟禁される事が決定したのですが、それを知った父は逃げ出してしまい、その行方をずっと探していたのです。
幸いにも何とか見つける事が出来ましたが、どうやら父はそこで良くない思想の持ち主たちと意気投合してしまったらしく、軟禁に当たっては、監視の者を置く方がいいだろうかと検討しているところです。
囚人のような扱いに、母も弟もショックを受けているようですが、私が面会した時の父は、確かにどこか異常で、まるで狂人のようにも見えたので、そういった対応は仕方のない話でしょう。
ノーラさんも罹病したと聞いた時は驚きました。ですが、残念な事に今の私では、何の力にもなってあげられません。
愛するあなたの危機を黙って見ているだけなんて、自分でも何と情けない事かと思いますが、父も『悪役病』にかかった今、教会に無理を言う事もできないのです。
ノーラさんはまだお屋敷にいるのですよね。彼女の一日も早い回復を祈っています。ナンナさんも、どうか悪魔にはお気をつけください。
イアンより』




