悪役病
「お前たちに大事な知らせがある」
ある日、中流貴族のコルヌール家の者たちは、深刻な顔をした一家の当主、ヨハンに談話室に呼び出されていた。ついぞ見た事のない父の険しい顔に、豪奢な赤いソファーに座ったナンナ・コルヌールは、張り詰めた糸のように背筋を正した。
「ちょっとお、パパ。私、これからビアンカと一緒に遊びに行く予定なんだけど」
ナンナとは反対に、妹のノーラはいかにも不満ありげに口を尖らせた。ドレス姿でしどけなくソファーの肘掛けにもたれかかり、退屈そうにクッションのタッセルをいじっている。母にたしなめられても、我儘なノーラは態度を改めようとはしなかった。ヨハンはそんな娘の不平を無視して、言葉を続ける。
「王国から、非常事態宣言を出す旨の書状が届いた」
「まあ、何てこと」
母が口元を両手で覆った。
ヨハンは懐から王家の印璽が押された封筒を取り出す。その印章を見ただけで、事態はかなり切迫しているのだという事が分かった。ヨハンは中に入っていた手紙を広げると、その内容を要約して娘と妻に伝える。
「当面の不要不急の外出は自粛するようにとの事だ。私も出仕せずに、屋敷で業務を行えと……」
「ええっ!?」
ノーラが素っ頓狂な声を上げた。あまりの声量に、隣に座っていたナンナは思わずびくりとなる。
「それって、ずっと家にいろって事? 退屈で死んじゃうわ!」
「それくらいでは死なん。諦めろ」
「嫌よ! いーや!」
ノーラはクッションを放り投げた。
「大体、『当面』っていうのはいつまでなのよ!」
「決まっているだろう」
ヨハンは床に落ちたクッションを拾いながら、ため息をついた。
「『悪役病』が収まるまでだ」
この王国に『悪役病』の影が差したのは、つい一か月ほど前の事だった。外国から入ってきたとか、どこかの施設から漏れ出したとか色々な噂が飛び交ったが、原因は定かではない。
ある患者は、友人と食事をしている時に発症した。飲んでいた酒を突然相手に引っ掛けると、お前の事など一度も友だちだと思った事はないと叫んで、あらん限りの言葉で相手を罵倒し始めたのだ。
別な中年の女性は、症状が現れてすぐに、同居していた息子の妻と折り合いが悪くなった。それまでは仲が良好だったのに、ある日を境に棚の上についた埃だとか、料理の味だとかにケチをつけるようになったのだという。姑から毎日ネチネチと文句を言われる事に耐えられなくなった妻は、とうとう家を出て行った。
患者が辻馬車の御者だった例もある。彼は馬車の運転が乱暴になり、通行人が渡っている途中なのに平気で突っ込んでいったり、他の馬車との車間距離を無駄に詰めたりして、相手を煽るようになってしまったのだ。
それまで善良だった者が、ある日、人が変わったように悪辣になる。いつの間にかその症状には、『悪役病』と名が付けられた。だが、名前を与えられても大して状況が良くなる訳ではなく、前代未聞の出来事に皆は混乱し、情報が錯綜して、王国は混乱に陥った。
この異常な事態に王は研究者たちを集めて、何が起きているのかを調べさせた。その結果、ある事が判明する。どうもこの件には、悪魔が関係しているらしいのだ。
すなわち、急に性格が変わったのは、悪魔に憑りつかれた事が原因である。そうと決まれば話は早い。早速高名な聖職者が呼ばれ、悪魔祓いの儀が執り行われた。
しかしこの悪魔、やたらとしぶとかった。儀式の効果は、多少は認められたものの、悪魔は結果的には患者から祓われるどころか、今度はその聖職者に憑りつき、新たに『悪役病』の罹患患者を増やしてしまったのだ。
しかも、元の患者はまだ『悪役病』にかかったままなのである。どうやらこの悪魔、増殖が可能らしい。すなわち、『悪役病』は伝染するのだ。それも、強力な感染力を誇っているとみられた。
その事が分かったのは三日前だ。強い伝染性があると判明したからには、非常事態宣言が出されるのは当然の結果だろう。