13 歌う獣との死闘
グァアアアアアアアアアアアア!
端村のはずれ森。
満月の光にさらされた広場。
苦しみ悶える獣は、巨大な熊だった。
マルコはなんとか立ち上がると、獣の正体が分かり、自分の気持ちも少しずつ落ち着くのが分かった。
慎重に見渡せば、満月が照らす広場は、木々の間にある円形の原っぱで、広さは人が50人は座れるだろうか。
右に目をやると、樹木の間に、ひっそりと彼が立っていた。
その男は、使い込まれているが汚れもない緑色の長靴をはく。
線が細い赤茶の上衣。
手には長い弓、羽のついた矢筒を背負う。
満月が、白い顔と、薄茶色の縁なし帽子をてらし、耳元から新緑の黄緑の髪があふれていた。
「まずは、森の主をなんとかしよう」
男は低く甘い声でささやき、足音も立てず、木々の裏へと姿を消した。
左目に矢が刺さる熊が、マルコを切断しようと腕をふり下ろす。
「これこそ丸太だ」とマルコは思い、足をさばいて、体を横にその攻撃をかわした。
そして次に、熊が右の腕を横に払った時、マルコは腕の左に踏み込むと、体に染み付く動きで反転。
小剣の一撃!
ガアアアアッ!
森の主は腕を上げ悲痛な叫びをあげる。
マルコの剣は、きいていた。
熊が踵を返したとたん、先ほどの風切り音が素早く三度も鳴る。
足、腹、首。立て続けに矢が刺さる。
たまらず熊は横に転げ、空気を震わすうめき声をあげた。
マルコは、もうこの動物は逃げ出すと思った。
しかし、苦しげに鼻から白い息を吐くと、森の主はまた立ち上がる。
満月の光で巨大な影を再びつくり、広場、いや森の全てを支配しようと、歌うように咆哮した。
◇
もう何度目だろうか。
ただの熊ではなく『主』と呼ばれる存在をマルコは肌で感じた。
弓使いとマルコの攻撃で、主は体から何本も矢を生やし、両腕に傷を負い血だらけ。
広場の草に点々と落ちる染みが、月光の下で黒々と光る。
だがしかし、森の主の闘争本能はなお衰えなかった。
首をまわし、敵を探す。
息を切らし、マルコは後ずさりした。
ふと背中に、硬い幹があたる。
下がれない、とマルコは恐慌状態になり、あわてて横に転げ起き上がる。
もう、つかれて、動けそうにない。
そう思い、ふと、ぶつかった大木の白っぽい幹に目をやった。
弓使いは、慎重に矢を放った。
独りなら––––そもそも主と戦う事などしないが––––隙をみて木にのぼっただろう。
上から、目や眉間を射抜きたかった。
しかし、あの少年のような剣士を思うと、そんな賭けはできない。
「さて、残りの矢は何本だろう」
彼は、いつぶりか思い出せないほど、焦りを感じていた。
主は、痛みのためか怒りのためか、ぞっとする唸りを繰り返す。
痛みの元凶を、あくまで探している。
その前に現れたマルコは、両手を下げて主を見つめる。
目を合わせると、背中を見せてあの大木へと走り出した。
見逃さず、主が脚に力をためた。
マルコは、大木を背に巨大な熊が突進してくるのを見ていた。
城壁も破りそうな勢いだ。
すかさず横から、細身の影があらわれて、低い声をもらす。
「死ぬ気か? 私は左。君は右へ抜けろ」
「ハァ……ハァ……大丈夫……このまま」
マルコは、そう答えたつもりだったが、息切れが激しくて、ちゃんと言葉にできたのかわからない。
猛進する熊の前、男は弓を引き絞り、狙いを残った右目にさだめる。
確実に射抜き、そして左に抜ける。
そうしないと、自分も死ぬ。
こんな運任せの捨て身の戦法など、彼には経験がなかった。
しかし、冷静に、機をうかがう。
ブンッ! と、矢は正確に森の主の右目をつらぬいた。
しかし突撃の勢いはみじんも衰えない。
弓使いは左へ跳び、マルコは小剣を手に、その場で沈んだ。
森の主は、視界もないまま、頭から大木の幹に激突。
地響きが鳴り、大木が揺れ、暗い葉っぱがいくつもふり落ちる。
遠くで、鳥がわめいた。
◇
弓使いの男は、思い出せないほど久々に、汗をかきながら、なんとか巨大な熊の右手をどかす。
骸の下の、マルコを引きずり出した。
マルコは目を開きガチガチ歯を鳴らす。
手にする剣は、森の主の黒い血がべったりついて、月明かりで光った。
森の主は、激突の衝撃かマルコの一突きかまたは両方によってピクリとも動かない。
身体の下から黒い血が広がり、水たまりをつくった。
男は言う。
「見ろ。その漆黒の血を。
すっかりマリスの毒にやられている。
一刻も早く洗い流した方がいい」
マルコが黒い血だらけの手で汗をふくと、頬に刺青のような黒い筋がついた。
男は、はっと厳しい表情になる。
だが、マルコは気にせず、ひと息ついて男を見上げ、はにかむような笑顔を見せた。
「はじめまして。僕はマルコといいます」
弓使いのその男は、ふっと彼特有の控えめな微笑みを浮かべ、なめらかな甘い声でつぶやく。
「なるほど。アルフォンスの言う通り、君はただの人ではないらしい」
◇
マルコが見た森の灯は夢ではなかった。
まだ早春なのに、豊かな緑を茂らせる樹を見上げると、大きな枝が分かれるところに、板で組まれた小さな小屋がある。
戸口のランプがおぼろげな灯りをともす。
伸びる枝に、縄梯子が下がっていた。
月明かりの錯覚か、樹皮は縦に彩られた、虹色に見える。
エルベルトと名乗った弓使いは、マルコに肩を貸し、はずれ森のその小屋まで連れてきてくれた。
彼は狩人で、もとは北方が猟場だったが、しばらく前からその小屋で寝泊りしているとのことだ。
もうすぐ休める、と元気が出たマルコが、はきはきたずねる。
「さっきは、あんなところで、いったい何をしてたんですか?」
「こっちのセリフだ」
エルベルトは、短く答えた。