交代お願いします
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合わせ鏡の悪魔、という話を知っているだろうか。
まず、二枚の鏡を平行に立てて合わせ鏡を作る。
完全に平行に立てると、右の鏡に映った像が左の鏡に映り、その像がまた左に映り……その繰り返しで、理論上は無限に像が映り続けることになる。
鏡の中を覗くとまるで無限に回廊が続いているように見えるのだが、実は左側手前から九枚目の鏡の中の世界には一匹の悪魔が潜んでいる。
金曜日の深夜、午前零時からの五分間。
故意にせよ偶然にせよ、合わせ鏡を開き、うっかりそいつと目が合ってしまったら最後。
悪魔に成り代わられて鏡の世界に囚われてしまい、死ぬまで二度とこちらの世界には戻れない、という都市伝説――
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「……そういう怪談、昔流行ったよなー。まったく、うちみたいなブラック企業で馬車馬みたいに働かされるくらいなら、いっそ鏡の中で暮らしてる方が気楽なんじゃないかって気がするぜ」
「はっ……馬鹿馬鹿しい。おい行こうぜ、そろそろ交代の時間だ。遅刻したら、また給料削られる」
俺は顔をしかめ、興味のなさそうな素振りを装いながら、煙草の火を乱暴にもみ消した。
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その夜、深夜零時。
俺はいつものごとく合わせ鏡の儀式を行い、九枚目の鏡に映る像にぼそぼそと呼びかけていた。
「……なぁ、聞こえてるんだろ?返事してくれよ」
反応はない。
「もう嫌なんだ……早く交代してくれよ、こんな人生」
反応はない。
「なぁおい、聞けったら」
反応など──ある訳もない。
金曜深夜のこの儀式を、いったい何度繰り返した事だろう。
平行に並んだ二つの鏡の奥には、無数の顔。
締まりのない、不健康そうな酷い顔だ。
ヒキオタコミュ症、デブでブサイク、ワキガの童貞。
ついムラムラしてやってしまった電車の中での痴漢のせいで、以前の仕事はクビ。
そんな男にまともな再就職があるはずもなく、ブラック企業でこき使われる毎日。
両親は既に亡く、恋人はもちろん、三十路を過ぎて親しい友人さえもいない。
こんな自分かイヤでイヤで。この場所から逃げ出したくて。
かといって、自殺したりすることも出来なくて。
「なあ……もう耐えられないんだよ、こんな生活」
鏡の奥に向けて呟く。反応はない。
「解るだろ? 俺の気持ち。なあ、なあってば」
反応はない。
「おいっ! なんとか言えよっ!!」
どん! と拳で床を叩く。反応は────ぴくり。
「…………」
流れる沈黙。九枚目の鏡に映った、俺と変わらぬ男の顔に、うっすらと冷や汗が浮かんでいる。
すうっ、と大きく息を吸い込んで。
「──ざっけんな、コラ! 聞こえてんだろ、完全に! 今ぴくっとしたじゃねぇか! さっさと代わりやがれこの野郎! あっ、なに目ェそらしてやがんだボケぇ! もともとてめぇの人生だろが、押し付けてんじゃねぇぞゴルァ! 戻せぇっ! 戻しやがれぇぇぇぇぇぇっ!!」
数年前、痴漢騒ぎで仕事をクビになったばかりのこいつと入れ替わってしまったのが運の尽き。
成り代わりは悪魔の契約。もう一度「成り代わり」をするか、こいつが本来の寿命を迎える日まで、契約は続く。
俺が自殺するのは契約違反。単に俺が人間として死んで、こいつが代わりに悪魔のポジションに収まるだけだ。
鏡の中のこいつの寿命が尽きるまで、あと何十年、このままでいないといけないのか──
──ああ、鏡の世界が懐かしい。
Fin.