忘れ物は何ですか
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――何だろう。思い出せない。
何かの記憶が欠けている。何かが足りていない。
だが、それが何なのかが思い出せない。
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――『記憶欠乏症』と呼ばれるそれが、新たな現代病として問題になり始めてから、もう随分になる。
記憶喪失、というのとは全く違う。
具体的に何かの記憶が途切れているとか、思い出せない時間があったりとかいう訳ではなく。
忘れていることなど何もないはずなのに、ただひたすらに、得体の知れぬ記憶の欠落感や喪失感だけが付きまとう病。
この病は、ずいぶん前から国も人種も年齢も関係なく広がり続けていた。それに伴って、自己の存在基盤を見失い、生きる気力を薄れさせていく人々は増加していく一方。
ガンもエイズも、遥か昔に克服されたこの世界。
しかしこの病だけは、原因も有効な治療法も見つからず、ついには世界的な死因の第一位を【自殺】が占め続ける有り様となっていた。
「この、何かが足りていない感じ……いったい、何が原因なんだろうな……」
人々は、理由のない喪失感と飢餓感を抱えながら、日々、鬱々と暮らしていくしかないのだった。
◆ ◆
「――また記憶機構の不祥事か」
管理官の1人が苦虫を噛み潰したような顔で、天界新聞をぐしゃぐしゃと乱暴な手つきで広げた。
見出しには大きく、【消えた記憶問題】【またしても記憶機構の怠慢か】の文字が踊っている。
「最近、多いですよね―」
傍にいた部下も眉をひそめる。
「前世の記憶を徴収するだけしといて、新しい命に対しては未払いのまんま放置したりとか、記憶を支給するためのデータを大量に消去してしまったりとか、記憶の過払いに気づいておきながら隠匿したりとか……」
「おまけに神界からの天下り問題だ。全くけしからん」
「世界記憶保存庁の時から、看板かけ直しただけで、体質ぜんぜん変わってないですからねえ。いや、むしろ世保庁の時よりひどくなってる気がします。――まあ、人間達があまりにも増えすぎたってのもあるんですけどねえ……。そりゃ、データ管理が大変なのも解らない訳じゃないんですが……」
「……いっそ天変地異か何かで一気にギリギリまで人口減らしてから、余った記憶を一人か二人にぶち込んで最初からやり直す方が楽かも知れんな」
「アダムとイブからのやり直しですか。過激ですけど、それが一番いいのかも知れませんねえ……」
天界での休憩時間。茶を飲みながら苦虫を噛み潰す天使たち。
彼らの政治談義は、まだまだ終わりそうになかった。
Fin.