初雪を待ちわびて
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それは、ちいさな家の、ちいさな部屋の中。母親の膝の上で。
「……ねえ、ママ。ゆき、ってなーに?」
幼い少女は、絵本から顔をあげると振り返り、大好きな母親の顔を見上げながら、こてん、と首をかしげた。
「……そっか。そういえば、あなたはまだ、本物の雪を見たことなかったわね」
母親は、ほんの少し目を細めた。
「白くてね、ふわふわしててね、キラキラしてるの。小さなかけらが、お空からたくさんたくさん降ってくるのよ」
「ふーん、それって、なんだか、おいしそう!」
「うふふ、食べちゃダメよ。とっても冷たいんだから。お腹こわしちゃうわよ~」
母親は笑いながら、うりうりと小さな娘のお腹をつついた。
くすぐったそうに身をよじる少女。
つんつんつん。うりうりうり。
きゃっきゃっと幼い笑い声が響く。
楽しくふざけ合い、娘をくすぐる手を止めて。
母親はふと、遠い目をした。
「雪、かぁ……」
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また、あるマンションの前、車の中。
「……なあ、いい加減、うんって言ってくれよ。俺の気持ち、わかってるんだろ?」
……ばーか。
……だれが、あんたみたいなダサい男と。
必死な男の様子を横目で見ながら、女は小悪魔めいた笑みを浮かべた。
「……バッグでも香水でも、何でも欲しい物買ってやったじゃないか。一度くらい、部屋に入れてくれてもいいだろぉ?」
女の瞳にそれと判らぬほどの微かな軽蔑の色が浮かぶ。
……うわ、ちっちゃ。
あれっぽっちの貢ぎ物くらいであたしを買えるつもりででもいたわけ?
サイッテー。
「……なあ、頼むよ。好きなんだ。惚れてんだよ。」
……あーやだやだ。
押し付けがましい物言いの次は、ひねりのない口説き文句。
これだから、ろくに女と付き合ったこともないボンボンは。
……でも、優しいんだよね。
お金持ちだし。
わがまま聞いてくれるし。
顔もまあまあだし。
キス、上手くなってきたし。
……やっぱ、あっさり切るにはちょっと惜しいかなー。
「また、今度ね」
「今度こんどって、いつだよぉ」
「そうねぇ……」
首をかしげる女。
「──雪が降ったら、かしらね」
「え? それって……」
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そしてまた、別の家の、庭に面した重厚な和室。
「……どうだい、『雪中紅梅図』。見事な絵だろう。もちろん模写だがね。なかなか部屋の風情に合ってると思わんかね?」
「は、いや、すいません、美術品には、とんとうとくて……」
……やれやれ、またか。
義父は決して悪い人ではないのだが、趣味の日本画の話になると、話が長いのが玉にキズだ。
「いかん、いかんなあ。人間、たまには絵でも彫刻でもいいから文化や芸術にひたる機会を作らんと。心のゆとりというのは大事だぞ」
「……はあ、そうですね」
苦笑するしかない。
そういう義父こそ、若い時分は、芸術だの美術だのと無縁どころか相当やんちゃな生活を送っていたと聞いている。
義父がプールやサウナ、温泉に行かないのは、人混みが嫌いというだけが理由ではないはずだが。
あのカラフルな背中の方が、よっぽど芸術的だと思う。
「まあ、ムリもないか。日本画なんぞ地味なもんだし、それに……」
「はあ……」
「雪、といってもなぁ……」
「……ええ、まあ。ですよねぇ……」
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また別の場所、若者たちの集うゲームセンター。
「……聞いたか? サトシの奴、あれからミユキと、しょっちゅう会ってんだってよ?」
「へーえ。それで?」
「……いまだに、手も握ってないらしい」
「げーっ、マジで? あのヤリチン大王が?」
どよめく若者たち。
「も、完全ベタ惚れ。 なんか、ぜってークリスマスに告るんだって、プレゼント買うためにバイトはじめたらしい」
「……うっわ、マジ?」
「大マジ。こりゃ……雪でも降るんじゃね?」
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冬空の下、人々が自らを抱きかかえるようにして歩いていく。
行き交う人々の足取りは一様に早い。
うす暗い冬の街、場違いなほどに明るいクリスマスソングの音色だけが流れている。
信号待ちの横断歩道。
せかせかと足踏みを繰り返す若者。
携帯電話を眺める女子高生。
風邪でもひいたのか、ゴホゴホと小さくせき込んでいる、マスクをつけたサラリーマン。
信号が赤から青に変わり、人の波が動きはじめる。
クリスマスイヴの夜だというのに、電飾のイルミネーションも、明るいネオンも、そこにはない。
ふと、横断歩道を渡る一組のカップルのうち、女の方が、足を止めた。
その顔には、何か信じられないものを見たかのように、愕然とした表情が浮かんでいる。
次いで女は、あわてたように宙を見上げ、一心不乱に空を見つめはじめた。
連れの男は気付かずに数歩進んだ後、隣にいるはずの彼女がいないことに気が付く。
何やってんだよ、と言いかけたその声は、発せられることなく喉の奥で止まった。
彼女だけではない。
一人また一人と道行く人々が立ち止まり、皆、次々に空を見上げていく。
その上からひらひらと舞い落ちる、白い花弁に似た、きらめきのかけら。
……気がつけば、異様な光景がひろがっていた。
信号はとっくに変わったというのに。
誰一人動きだそうとする気配すらない。
車に乗っていた者たちでさえ、窓を開けて空を見上げ、あるいは車を降りて、空から落ちてくる白い雪の花弁に見とれている。
クラクションを鳴らす者さえ一人もいない。
一人の老紳士の目から、涙が一筋、こぼれ落ちた。
「雪、だ……」
……西暦22XX年。
温暖化が急激に進み。
一時は23世紀を待たずして海に沈むのではと言われたこの島国で。
滅びを避けることは絶望的と言われながら、なお国を捨てきれず、しがみつき、あがき続けた人々。
その人々の上に、雪が降る。
50年ぶりの、初雪。
避けられぬ滅びへの道を、後戻りしはじめた最初のしるし。
母親は、はしゃぐ娘と手をつないで雪夜の散歩と洒落込み。
若者が小さくガッツポーズをした同じ頃、小悪魔は頭を抱え。
婿養子は義父と庭に降る雪を眺めながら、熱燗の日本酒を酌み交わし。
改心したナンパ師は宝物を手に入れた。
その全ての人々の上に、雪は優しく降りかかる。
誰かが、つぶやいた。
……ああ、そうとも。
俺たちが、そう簡単に、滅びてたまるかってんだ。
雪や こんこ
あられや こんこ
降っても 降っても
まだ降りやまぬ
Fin.