ものづくり
夏が過ぎ、風が冷たくなりだした頃に、母が扇風機を買った。メーカーのカタログを見てのひと目惚れだったらしい。惚れた心に、過ぎゆく夏に合わないからという理屈は、やはり無粋なのだろう。
オールナットの木製で、羽根はべっ甲を模しており、一見すると京の小町をそぞろ流れる涼風の風合いがする。家は、昭和三十年代の末に建てられたもの。施主の祖父が少し背伸びをしたのであろう、居間には桜木を使用した床の間がしつらえられている。そこに置いてみれば、床の間のある居間によく似合う扇風機ではある。
大手電機メーカー自薦の高級品目で、値は十分に高価だった。惚れたと思ったら世界が消えていたのであろう、母が財布のあとさきを考えずに手を出して、家の中は庶民が衝動買いをしたあとの枯れ野を渡る風だ。
なにも私はこの稿で、わが家の物自慢をしたいわけではない。ここで少し、この国の職人について考えたいと思うのだ。近ごろ巷で人気の豪華列車も、しつらえは全国各地の職人の技の結晶と聞く。今そうした列車に魅せられる人が多いのも、日本人の心の奥底で、普段はおとなしく眠っている獅子の子が、職人技のあまりの眩しさに目を覚ましたからとも言えるだろう。
しかし、残念なのは、せっかく職人の粋を集めた列車に乗った人たちが、列車をバックにスマホで自撮りをして、「ハイ、おしまい」といったところ。列車を降りれば、獅子の子はまた永い眠りに就く。
一方で、はっとする列車を造り上げた職人ひとり一人に目を向ければ、後継者に悩む寂れゆく地方の住人という現実を、一様に抱えている感がある。あと二十年もすれば、かつての自撮りの写真の背景にしか、この国の職人の仕事の跡を見出だせなくなる日が来るかもしれない。
今日もわが家の居間に置かれた扇風機は、冬を隣の客間に待たせて、秋が深まってきた冷気に、束の間の午後の陽射しも脇に追いやる冷風をいっそう加えて舞っている。母の御満悦の陰で、メーカーが作ったものの限界を見る思いもする。本物の職人の手が醸し出す風韻は、やはりその姿からは伝わっては来ないのだ。
この国の職人のもの作りはやがて、メーカーのカタログの後ろの方の小さな高級品と銘打って打ち出される枠の中だけに、かろうじて意匠だけを真似たものとして名残を留めるだけになってしまうかもしれない。
もの作りの伝統が、中身の伴わない器だけを糊塗して残ってゆくだけだとしたら、今この国に台風のように吹き荒れている新築という名の廃墟のあとには、さらにうら寂しいすきま風の吹く町並が、立ち現れることになるだろう。