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ささくれ黙示録 ~ショートショート集・ソノ1~

ショートショート019 スパイ保険

作者: 笹石穂西

 あるところに、ひとつの先進国があった。人々の暮らしはおおむね豊かで、企業も元気に商売をやっていた。


 そしてその国には、自然発生的に産業スパイが誕生していた。企業の機密情報を盗み出して、株価の予測に活かしたいという投資家などに売りつけるのだ。商売が活発に行われているのだから、当然の流れと言えよう。


 だが、スパイ行為は非合法なので、リスクも大きい。その最大のものが、現行犯で企業の警備員に捕まることだった。そうなれば、警察による逮捕はまぬがれない。あとから疑惑が出てくる程度ならばうまく揉み消せることもあるだろうが、こればかりはどうしようもなかった。




 そこで、いったい誰が思いついたのか、そんなスパイたちを守る仕組みが作られた。「スパイ保険」だ。


 スパイ保険は、国内で暗躍している産業スパイたちのほとんどが所属している、極秘かつ非合法の組織が用意している保険だった。普通の保険とは性質がまったく違う。この保険の出番は、スパイが捕まったときにやってくる。その掛け金は金銭ではなく、スパイたちが仕事で手に入れた情報だ。


 国内のスパイたちは、ある種の共同戦線を張っている。仕事で得た情報を組織に提供することで間接的に共有し、多くの企業の重大な弱みを握っている。もしもスパイが失敗したときには、組織は正体を隠したまま弱みを使って企業をおどし、スパイが情報を盗み出すのを諦めるかわりに、捕まえたスパイを見逃すよう仕組む。仕事が失敗に終わったスパイは信頼を失ってしまうわけだが、逮捕という最悪の結果だけは免れられる。


 しかし、クライアントのために盗んだ情報をクライアント以外に流していたのでは、信用が成り立たない。実際その国では、標的企業のライバル会社などがスパイを使おうとすることは少なかった。自分たちがスパイを使ったという事実を横流しされては、ひとたまりもないからだ。


 そういう事情もあって、スパイを利用しようとする者のほとんどは個人の投資家ばかりで、投資家による情報の不正入手はもはや公然の秘密だった。だが、組織から不要に情報が流されるようなこともなかったので、さしたる問題にはならなかった。






 自分の人生に対してやや熱い考えを持っているその男もまた、産業スパイの一人だった。


 狙った企業に身分をごまかして潜り込み、重要人物の信頼を得て情報に接近する。文書を手に入れ、自分が疑われないよう工作したうえで穏便に退社し、文書と引き換えに金をもらってその土地を離れる。


 その男は、受けたからには必ずやり遂げるという、ある種のプライドを持ってこの仕事に取り組んでいた。大変な仕事だからこそ、依頼の完遂は絶対条件。受けた仕事は必ず達成する。そうでなくては人生はおもしろくない。それが男のやり方であり、こだわりだった。


 とは言え、この男も失敗したときのことを考えて、他のスパイ同様、保険には入っていた。


 スパイという厳しい仕事を自分の力だけでやり遂げ、人生を充実したものにする。確かにそれが男の目標であり、楽しみだ。


 だがそれも、最低ラインの安全が確保されていてこそのものだ。


 男は冷静に、現実をそう認識していた。


 自力での完遂にこだわりすぎた結果、人生そのものをふいにするくらいなら、少し妥協してでも保険に加入しておいて、恩恵にあずかったほうが無難というものだ。真に充実した人生を送るためには、多少の掛け金は必要なものさ。この場合は、情報という掛け金だがね。


 自ら思いついたそんなフレーズが思いのほか気に入った男は、数人のスパイ仲間にその考えを吹聴した。少しばかり調子の良いところもある人物だったが、男なりに誇りを持って仕事に取り組んでいた。






 そして今度の仕事は、男にとって大きなヤマだった。それまでは国内のクライアントの仕事ばかり受けていたのだが、これは初めての海外からの依頼だった。


 うまく成功すれば、企業どころか国家まで裏切る結果にもなるかもしれない。


 少々危ない橋を渡ることになりそうだったが、これも仕事だ。そういうこともあるだろう。それに何より、金がいい。今までとは比較にならないほどの金額だった。金より仕事というのを信条にしていた男だが、今回はさすがに、少しばかり目がくらんだ。




 狙う獲物は、最新技術を売りにして、家庭用品から自動車・航空機などの部品、最先端の素材、はては軍需産業部品などの開発と製造を手掛けている、国内屈指の巨大メーカーだった。


 そこそこの仕事歴を持つ男にとっても、はっきり言って難しいものだった。かなり警戒が厳しそうだったからだ。


 潜入するだけなら簡単だ。面接官が欲している人間像をあらかじめ調べ上げておき、それを演じればいい。


 だが、そこから先、警戒心の強い上司の信頼を勝ちとり、情報のありかをさりげなく聞き出し、忍び込んで文書のコピーをとらなくてはならない。人間の相手も大変だが、侵入のための準備もまた大変だろう。どんな防犯対策がとられているか分からないが、きっと想像以上のものが仕込まれているに違いない。


 その後も怪しまれてはいけないし、早く企業を去らないといけない。万が一に備えて、自分は犯人ではないという明白な証拠も作っておく必要がある。


 まったく、神経がすり減る思いだが、男はそれを楽しんでもいた。常に実力勝負の人生。確かにこれほど生きがいのある人生も、そうはないだろう。


 それに、たとえ失敗したとしても、おれには保険がある。逮捕されることはないのだ。どこのどいつかは知らないが、うまい仕組みを作ってくれたもんだぜ。情報を組織に渡すだけで、おれは安心して仕事に取り組めるんだからな。


 そんなふうに、保険を作った誰かの発想にあらためて感心しながら、男は潜入工作を開始した。最低限の身の安全は保証されているのだ。この先は実力の世界。勝つも負けるもおれの責任。実にいい。これこそ、男の理想の生きざまじゃなかろうか。






 結局、男は何のトラブルもなく、その大企業への潜入に成功した。


 しばらくは真面目に仕事をこなしつつ、こっそりと調査を進めた。何か知っていそうな人間に接近していろいろと話し、やがてある部署の部長が情報を扱っていることを知った。


 そして、いくらかの時間をかけてその部長に取り入り、それなりの信頼を得ることに成功した。意外と順調にことが進んだな。思っていたよりも警戒は薄いようだ。大手だから油断しているのだろうか。それとも、人の数が多すぎると麻痺してしまうのだろうか。


 理由はわからないままだったが、とりあえず、男の仕事がやりやすくなったことは間違いなかった。


 さらに調査を重ね、ようやく情報のありかを突き止めた。社内でも特に重要とされている、幹部クラスしか立ち入れない施設の中にあるようだった。あとはセキュリティを調べ、装備をととのえて侵入し、情報をいただくだけ。


 運良くいまは決算期で忙しい時期だ。人間の警戒も薄いんじゃないかな。機械だけなら、なんとでもなる。やるならきっと、今なんだろうな。そのあとの流れはもう決まっているし、うん、あと数週間でおさらばできそうだ。


 そうして男は作戦の実行日を決定し、その日に備えて準備を進めた。




 数日後、男は装備を極秘裏に社内に持ち込んだ。隙を見て身に着け、消灯されている重要施設に侵入。思った通り、人間の監視は薄かった。最新のハイテク機器を使ったので、機械の監視もかいくぐることができた。


 そしてついに、目的の部屋にたどり着いた。あとは室内に入り、机の引き出しを開け、中に入っている文書の内容をマイクロカメラで撮影し、脱出するだけだ。はやる心を抑えて、男はドアノブに手をかけた。


 その瞬間。男が立っていた廊下が光に包まれた。廊下のライト全てが、一斉に点灯したのだ。驚愕のあまり、男は大きく動揺したが、すぐさま立て直して考えた。即脱出。それしかない。侵入は間違いなくばれている。だが、装備のおかげで顔は分からないはずだ。


 一瞬でそう結論して、男は出口へと駆け出した。しかしそこには、複数の警備員が立っていた。振り返って別の方向へ逃げようとしたが、そこにも警備員。八方ふさがりだった。念のために戦闘の用意もしてきたが、さすがに多勢に無勢、無駄なあがきだと判断し、男は投降した。




 どうして失敗したんだろうか。これでは、おれのプライドも台無しだ。スパイとしての信頼もがた落ちだろう。それはしかたがない。


 だが、まだおれには保険がある。またいちからやり直しだが、そのくらいの損失なら、甘んじて受け入れるさ。実力で負けたのだ。おれの理想の人生のためには、負けはきちんと受け入れないとな。




 そのとき、警備員たちの間から、ある人物が現れた。信頼を得ていたはずの部長だった。


「やはり来たか。いまはみな決算で忙しいし、そろそろかと思っていたが、案の定だったな」


 男は愕然とした。つまりおれの計画は、初めからばれていたということだ。わけがわからない。そんなへまは、していないはずだが。


「なぜ、私だと分かったのです。いつから知っていたのですか」


「最初からだよ。我々をなめてもらっちゃ困る。多くの最先端技術を扱う、国内最大規模の企業だ。それくらいの情報は入ってくるし、あえて泳がせておいて現行犯で捕まえることなど造作もないことだ」


 そういうことか。男は事情を理解し、向こうが一枚上手だったことを認めた。


「仕方ありませんね。完全に負けました。しかしまあ、まだ策はあります。もうここを狙うことはないでしょうが、必ず再起を果たしてみますよ。私の人生のためにもね」


 そう言って負け惜しみを言う男に対し、部長は感情のこもっていない目で、男の間違いを指摘した。


「君は何か、勘違いをしているようだな。策というのはスパイ保険のことなのだろうが、今回それは使えないぞ」


「なんですって……」


 想像さえしていなかった残酷な事実を告げられ、男はその日一番の動揺を見せた。


「君は、少しも調べなかったのか。こんな大事なことを」


 部長はあきれたような表情で続けた。


「スパイ保険を設立したのはわが社だ。国内のスパイ全てを管理しているのは、我々なのだよ。だから、うちを狙おうなんてことには、普通はならないんだ。海外からの仕事でも受けない限りはね」


 あまりのことに呆然とする男を無視して、部長は続けた。


「そもそもスパイ保険は、政府が黙認している非公式の制度だ。なぜか分かるか。スパイ活動は企業にとってはダメージだが、スパイがもたらす情報は国家に大きな利益をもたらす。我々が情報をまとめて政府に渡しているんだよ。政府はその見返りとして、わが社と優先的に取引をするし、ときには情報も流してくれる。君ごときの動き、つかめないはずもなかろう」


 ここまで聞いて、ようやく男は反応を見せた。


「なるほど。まさか、そういうことだったとは。では、私はこれから、どうなるのでしょう」


 間違いなくもたらされるであろう宣告におびえ、男は小さく肩をふるわせた。


 しかし、部長の回答は、男が思っていたものとは少し違っていた。


「君はスパイとしては三流だ。わが国を含む先進各国で暗躍している一流のスパイには及ぶべくもなく、普通なら極秘に処分するしかない。だが、そうだな。資金の潤沢でない後進国なら、君でも通用するかもしれないか。適当な国を選んでやるから、そこでスパイを続けたまえ。産業スパイではないぞ、対象は国家機密だ。なに、怖がることはない。本来なら君は今日にも死んでいたのだし、それよりは紛争地域に行く方が、死なずに済む可能性は少しは高いはずだ。それに」


 そこで言葉をいったん切って、部長はさらに続けた。


「それに君はスパイの仕事で、やりがいのある人生が送りたいんだろう。君にとってはこの程度のリスク、人生のためのいい掛け金になるんじゃないのかね」

すでにありそうで怖いです……。

似たような話、程度ならまだ良いのですが、「ほとんど同じだ」という既存作がもしあれば、ご一報いただけると幸いです。

よろしくお願いします。

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