9 膨張 EXPANSION OF THE UNIVERSE
恵里菜は就職を希望した。この数日の騒動が彼女に決断させたらしい。彼女の学力からすれば、それなりの大学に入れるし、大学に入ってから決めても全然遅くないのに。
「 ところで、就職するんだって? 」
「 そうよ。困ってる人を助けたいんだ。みんなが幸せであることが私の理想なの。 」
恵里菜は簡単に言った。
「 皆が幸せなんて、所詮無理な話だろ。競争社会なんだから。勝つやつの影には泣いてるやつが沢山いる。多少ズルしたってやった者勝ちって社会なんだから。 」
「 そうかな。でも世の中、悩みを抱えてる人だらけで、目の前にそういう人がいれば放っとけないでしょ。 」
「 そうかも知れないけど、自分のことさえちゃんと出来ない人が何で他人のことばかり出来るのかな。不思議でしょうがないよ。 」
「 私が頑張る事で結果が良くなれば、それでいいの。 」
恵里菜は諦めなかった。彼女の確信めいたものを感じた。
「 結果が良くなれば、か。確かにな。お前みたいなやつも必要かもな。偉いよ。自分を捨てても人の為にっていうのは。でも、人の為に働くのはいいとしても、その為にお前が犠牲になることは無いと思うよ。 」
恵里菜は本気だった。揺ぎ無い信念を持っている様だった。彼女の場合、自分の遣りたい事に使命感さえ抱いている。そんな彼女の姿が眩しく見えた。
「 うん、分かってる。でもその肝心の働く所がまだ決まってないんだよね。何かいい仕事無いかな。 」
「 介護とか看護士の仕事は? 」
「 そっち系はあんまり興味無いかな。そういう仕事してる人沢山いるし、足りてるかも。 」
「 そうか。困ってる人は病気の人以外にもいるしな。俺も考えてみるよ。とにかく応援するし、お前なら頑張れるよ。 」
「 ありがとう。ニーノが応援してくれるなら、きっと私も頑張れると思うよ。 」
随分涼しくなったバルコニーをさくらが短い足で懸命に歩いている。更に大きくなったお腹が床に摺りそうになっている。もはやダイエットは撤回し、フードを増やして栄養を十分与えている。おやつも食べ放題だ。
「 おいで、さくら。 」
大きいお腹をゆっさゆさ揺らしながら歩いてくる。最近は舌を出してハアハアと息遣いを荒くして動くことが多くなっている。ひっくり返ってお腹を見せるだけで苦しそうだ。お腹の重みで胸が押し潰されそうになっている。お腹に手を当てると赤ちゃんがピクピクと動いて元気に成長しているのが感じられる。
「 お腹大きくなったな、さくら。お母さんになるのか。お前は3歳でお母さん、俺は18歳で学生か。もう追い越されたか。早いなー。しかしお前、ちゃんとお母さん出来るのか?子犬の面倒みて、おっぱいやんなきゃ駄目なんだぞ。 」
お腹を撫でられながら目を細めている。僕から見ればまだ全然子供のさくらが母親になるなんて。お腹に赤ちゃんがいることを分かっているのだろうか。おっぱいが少し膨れてさくらの体はお産の準備を始めている。
優香がさくらを交配に連れて行って以来、今日で59日目。あと3日で出産予定日だ。犬の出産と言えば安産の象徴みたいなもので、案外軽く考えていた。物の本によれば純血種の出産は意外に大変だそうである。帝王切開でしか産まれない犬種もあるらしい。コーギーの場合、人の手で介添えしてあげないと駄目な場合もあるらしい。赤ちゃんを人の手で引っ張り出してあげたり、姿勢によっては産道にひっかかったりすることもあるので、早めに判断して病院に連れて行かなければいけない。出産のことを知れば知るほどちゃんと産ませられるか不安になってきた。出産に必要なタオルやはさみ、へその緒をくくる糸、ドライヤーなど、父が早くから準備して箱に揃えてある。明日父と一緒にもう一度動物病院に出産前の最後の確認に行く事になった。
その夜は寝苦しくて眠れなかった。「犬の妊娠と出産」という本を読み返した。コーギーの様な中型犬で5・6頭、大型犬になると1ダースも産むことがあるらしい。他にも犬の生殖や出産のメカニズム、子犬の育て方など興味深いことが書いてある。1冊全部読み終わって尚更眠れなくなってきたので外に出て夜道を歩いた。夜の風は何故か澄み切っている様で心地良い。それにしても、優香は産まれた子犬をどうするつもりだったのか。もし6頭もの子犬が産まれたら、さすがに全部を自分の所で育てるのは無理だろう。誰か引き取り先の当てがあったのだろうか。一度確認しないといけない。明日にでも優香のお母さんに聞いてみよう。
こんな遅い時間なのに、サラリーマンが家路に向かって歩いている。毎日こんな遅い時間に帰るのだろうか。遣り甲斐や生き甲斐、家庭や仕事。守るべきものを持ちながら遅くまで働いている。みんな自分の遣りたい仕事をしているのだろうか。それとも家庭の為に自分を犠牲にして、したくもない仕事をしているのだろうか。お父さんが家族の為に一生懸命に働いて、働きすぎて、逆に家族から見放されるという話はテレビなどでお馴染みのパターンだ。僕に仕事と家庭を両立してやっていくだけのバイタリティーがあるのだろうか。
午前3時まで起きていたので朝起きるのに苦労した。父が朝ご飯を作ってくれた。動物病院は9時から受付開始だ。さくらはレントゲンを撮るので朝ごはんを抜いて軽く散歩して水だけ飲ませた。
病院には父と一緒に行った。受付の10分前に着いたが、病院はすでに開いていた。待合室は朝から診察に訪れた人で一杯だ。さくらのパンパンに膨れたお腹を見てさすがにみんなびっくりしていた。出来るだけ話し掛けられないようにさくらを抱えて待合に置いてあるテレビの画面を見つめた。それでも遠慮知らずのおばちゃん達はすぐに声を掛けてくる。
「 まあ、お腹大きいわね。赤ちゃん生まれるの? 」
当たり前だ。こんな元気な顔してこんな巨大なお腹を抱えた犬は妊娠犬以外ないだろう。おばちゃんは太って、目のぎょろりとしたパグを連れている。おばちゃんそっくりだ。
「 そうです。今日は出産前の検査に来たんですよ。 」
「 そうなの、大変ね。この子も赤ちゃん産んだんだけど、大変だったのよ。5頭も生まれちゃって。おばちゃん三日三晩付き添って、やっと生まれたんだけど、それが可愛くて、手放す前に情が移っちゃって・・・ 」
誰もそこまで聞いていない。仕方なく相槌を打ちながら上の空で聞いていた。それとなく回りを見回すと飼い犬と飼い主が驚くほど似ている。パピヨンを連れている派手なおばさん、フレンチブルを抱えている小太りのおじさん、チワワをかごに入れて大切そうにしている女子大生風のお姉さん。顔や犬の持つ雰囲気が飼い主にどこか似てるのでだんだんおかしくなってきた。そんなことを考えていると名前を呼ばれた。
「 こんにちは。今日はレントゲンですね。連れて行きますので、しばらくお待ちください。 」
さくらをあずけると再び待合室で待った。
5分もすると再び呼ばれた。
「 こちらへどうぞ。 」
病院のスタッフに促され、父と中に入っていく。先生がディスプレイの前でパソコンを操作し、画像を調整している。
「 8頭ですね。」
先生は画像に映る子犬の頭と脊椎を丸く囲みながら説明した。
は上からと横からの2枚の映像が映っている。
「 産道の幅も十分ですね。赤ちゃんも十分大きく育っています。ただこの1頭だけ小さいですね。 」
「 小さいというと。 」
「 栄養が十分吸収しきれてない可能性もありますね。沢山入ると中にそういう子がいることもありますね。珍しく無いことです。 」
「 分かりました先生。3日後が予定日なのでどうぞよろしく御願いします。 」
父がやきもきしながらも先生に聞いた。
「 もう体温を測ってくださいね。犬の平熱は38度ちょっとで人より高いです。出産直前は体温が下がります。その他いきんだり、破水したりとか出産の兆候があれば連絡ください。 」
「 夜でも連絡取れますか? 」
「 ええ、転送になりますが、繋がりますので。 」
「 それでは、先生よろしく御願いします。ありがとうございました。 」
赤ちゃんが8頭。お腹が大きいはずだ。ずっしり重いさくらの体には8個の新しい命が宿っている。
「 岡田さん、岡田さくらさん。 」
「 はい。 」
「 3千円になります。出産の時は御連絡くださいね。 」
「 初めてなもので、よろしく御願いします。 」
「 お大事に。 」
秋晴れの空がどこまでも高く突き抜けている。あの青の向こう側には無限の宇宙が広がっている。僕の運命が如何なっても宇宙の成長にも時間の経過にも全く関係ない。僕が死んでも世の中何も変わらない。僕はこの手で優香の残してくれた子犬を絶対に無事に育ててみせる。新しく生まれてくる命を決して無駄にはしない。