1 真空 VACUUM
朝日に照らされて長く伸びた影が、はっきりとコントラストを付ける。それを見ていると眼がチカチカしてくる。朝から出掛ける気にならないけど、約束してしまったから仕方が無い。洗面所に行き、冷たい水で顔を洗った。そう言えば、風呂に入ったときに髭を剃っとけば良かった。最近少し髭が濃くなってきた。洗面台の水で石鹸の泡を立てる。掌で触り、剃り残しが無いか確かめた。眉の形を整え、また顔を洗った。
あのわがまま娘が、朝からメールをよこしてきた。
《 迎えに行ってやるからちゃんと用意しといてね。朝ご飯たべたら歯磨けヨ。 》
そんなことは言われなくても分かってる。いつも一言多い恵里菜の性格。何ともならないのは分かってるから、あえて文句は言わない。
地上143M、43階建てのマンション。最上階はメゾネットになっている。バルコニーから見下ろすと人間が蟻んこのように小さくうごめいている。車はおもちゃのミニカーだ。ここから落っこちたらどうなるだろう。地面に到着するまでに、ちょっと時間がかかる。定番の「過去が走馬灯の様に一瞬にして頭の中に甦る」を体験しながら落下していくのだろうか。
低層棟の屋上の公園に、いつもの様に散歩してるおじいさんが見える。公園へは一度も行ったことが無い。公園への行き方さえ知らず、おじいさんの顔も見たことが無い。ここから見て、辛うじておじいさんであることは分かる。毎日々々何を考えて生きているんだろう。生き甲斐なんていうものがあるんだろうか。
ピンポーン。チャイムが鳴った。
「 新野くん、迎えに来たよ。 」
「 何しに来たの? 」
「 いいから早く下りといで。待ってるからね。 」
エレベーターホールに向かって玄関を出た。途中の階からスーツ姿のサラリーマンや学生が乗り込んでくる。3階で止まると小走りで慌ただしく駆けていく。
「 ニーノ行こうぜ。 」
同級生の恵里菜は先生から有の難い指令を受け、朝のお出迎いにいらっしゃった。マンションの3階から駅までデッキが繋がっている。駅方向の人波がたんたんと流れている。
連絡通路を通って駅まで天気を気にせずに行ける。低層部は商業施設や駐車・駐輪場、スポーツジムなんかがあり、高層部は分譲マンションで、駅前の再開発事業で完成したばかりだ。
「 歯磨いたか? 」
「 うるせー。歯磨きは唯一の趣味だし。ほらっ。 」
予想通りの質問に、用意しておいた答えを返した。ニーッとやって歯を見せた。
「 キスしてやろうかエリナ? 歯磨いてるし、いい匂いするぞ。 」
佐藤恵里菜とは幼馴染。幼稚園から一緒で、中学の一時期、話さないこともあったけれど、高校でたまたま同じクラスになって昔の様に仲良くやっている。口は悪いけど可愛らしく、すらっとしている。擦れ違った男がよく振り返って目で追っている。可愛いと思われているのを彼女は十分分かっている。買い物などで金額以上のサービスを受けたり、男どもに親切を受けたり、美人の恩恵を被っている。そんな友達を持てたことは嬉しいけれど、不思議と彼女には恋心を抱いたことは無い。側に居て当たり前の存在だ。しかし正直言うと、そばで見ていて思わずキスしたくなったことは、少なく見積もって過去に二、三度ある。
通勤・通学の人々が駅のホームに溜まっている。
「 学校出てきなよ。出席日数、余裕無いみたいだよ。 」
「 いいじゃん。 」
「 何がいいの。卒業出来なくなるんだよ。まだ2学期の途中なんだから、頑張りなよ。 」
「 今日、何があるんだっけ? 」
「 進路指導よ。ちゃんと決めてきたの? 」
「 決まんないよ。勉強さえ何でやんなきゃなんないか分かんないし。だいたい今の時点で将来何になりたいかなんて分かる訳無いだろ。 」
「 そんなの誰だって悩むわよ。でも自分のことなんだからちゃんと自分で決めなさいよ。分かってるのは、このままいけばあんたはダブリってことよ。サボテンが、そろそろ本当にヤバイって真剣な顔して言ってたからね。 」
「 お前も先生も性格は悪いけど、実はいいやつだな。アハハハ。 」
国語担当の担任、サボテン。小太りで髪の毛が硬めで、ぴんぴん立ちまくってる。まるでサボテンの様に。3年になってすぐ個人面談があった。サボテンは特に話題を見つけられず、名簿の名前を見ながら言った。いい名前だな。今までこの名前には出会ったことが無い。この世に生まれて最初に呼ばれるのに相応しい、希望に満ちた名前だと言い放った。あと、お前は頑張れるやつだから、特に言うことは無い。と、ひとこと言われて終わりだった。それ以来、サボテンには特に悪い印象は抱いていない。
新野真空。にいのまそらと読む。真空、しんくう、まことにからっぽ。全く何にも無いという名前をいただいた。親は何を思ってこんな名前を付けたのだろう。小学生の時、親に名前の意味を聞いたことがある。宇宙のはじまりは真空から始まった。だから全てのはじまりを意味する名前なんだとか。何の取り柄も無い今の僕にぴったりの名前である。
「 他人事みたいに言って。もう子供じゃないんだから、学校来なくちゃ駄目だぞ。 」
「 とりあえずやることも無いし、ちゃんと行く事に決めたよ。でも進路指導終わったら、早退するぜ。 」
昨晩ずっと考えていた。これから僕はどうすればいいんだろう。学校に通う唯一の目的だった優香も失なった。しかし、たった3年間の高校生活さえ乗り越えられない自分て何なのだろうか。これから何を目標に生きて行くか、残り僅かな高校生活を、それを探す時間に当ててみようと思った。