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盲従

作者: 金釘亮

 七木雄二は善人である。

 善人すぎる、と言って良い。それは大人になってから、とか、何かきっかけがあって、といったのものではない。彼の生まれついての性質である。

 七歳の時、道に迷っていたお年寄りを助けた。

 十二歳の時、溺れている子供を助け、警察から感謝状を貰った。

 十五歳の時、クラス内のカップルの内、七組は彼の助けによってできた。内五組は高校、大学共に同じところへ進み、卒業後に結婚。

 十八歳の時、受験勉強の傍らでいくつもの人助けをし、彼の住む家の近辺で彼を知らないものはいなくなった。

 そして現在、二十五歳。彼は事務職に就き、誰しもに感謝されながら仕事をしている。


 ――そんな、完璧超人の七木雄二が、珍しく風邪を引いた。

 恐らく人生で初めてのことである。それはつまり、彼がめったに見せない弱みであり、となれば、彼に助けられた友人たちがこぞって見舞いに来るというのも当然の出来事であった。

 二日間。彼が寝込んだのはたったそれだけの期間である。

 六十三人。その期間に彼のアパートを訪れた見舞客の数である。

 それだけの人数だ、当然鉢合わせることもあり、最も多くて、それまで顔も知らない同士だった八人が彼の部屋に居た。誰もが彼を酷く心配し――中には涙を見せた者もいた――甲斐甲斐しく彼の世話をした。七木はそれに、普段からの人を安心させるような柔らかな微笑みで感謝を述べた。


 ひと通り来客が落ち着いた三日目。体調は完璧とは言い難く、彼は己の風邪を他人に移す訳には行かないと大事を取ってもう一日だけ仕事を休むことにしていた。普段の行いからか、上司は笑って休みを許した。

 そんな中、彼の職場の同僚である女性、沢村梨華が訪れた。

「やっほ、七木クン。ちゃんと休んでるかい? はいこれ、差し入れ」

 差し出されたのはスポーツドリンクと早めに飲めとコマーシャルされている風邪薬である。少し遅い。

「ああ、沢村さん。わざわざありがとう」

 七木はそれをおくびにも出さずに軽く微笑んで彼女を家に招き入れた。

「仕事、僕の分も沢村さんがやってくれてるんでしょ? ごめんね、迷惑かけて」

「やだなー、あたしが今までどんだけ七木クンに助けられたと思ってんの? 屁でもないよこんなの」

「僕のは、好きでしたことだから」

「じゃ、あたしも好きでしたこと。これでお互い手打ちってことで!」

「はは、そうか、ありがとう」

 こほ、と軽く咳き込むと、沢村は慌てたように彼の背中を擦った。

「ああ、ごめんね。私なんかに構わず寝ててよかったのに」

「そうも行かないさ」

 体調もかなり良くなってきたしね、と七木は言って沢村に椅子をすすめ、彼女が座るのを見てから自分は床の座布団に腰を下ろした。

「ごめんね、すぐに来られなくて」

「いやいや、僕のぶんの仕事をやらせちゃったんだし、忙しかったんでしょう? 無理して来なくてよかったのに」

「いや、流石にそういうわけにもね」

 沢村は軽く笑った。彼女もまた、七木にさんざ世話になった人間の一人である。

 同じ時期に会社に入ったにも関わらず、七木と沢村の仕事の上達速度には明らかな隔たりがあった。

 七木の評価はうなぎのぼり。となれば、当然沢村の上司からの心象は相対的に悪くなる――はずだったが、一体どのような手練手管か、そのようなことは起きず、しかも七木の誘導か、いつの間にか自分の仕事効率すらも著しく上がっている始末――少なくとも、自分の努力で仕事が上達したわけではないことくらいは分かった。

 そこまでお膳立てされると、人はむしろそれを『馬鹿にされている』と捉えがちだ。しかし、表向きには七木は何もしていない。沢村は一時、七木を蛇蝎の如く嫌っていた。

 彼女の認識が変わったのは、ひょんなことから、飲み会の帰りに七木に送られた時である。

 適度に酒を飲み、程よく酩酊していた沢村は、七木に「私の事を馬鹿にしているんでしょう」と詰め寄ってしまったのである。七木はそれに酷くうろたえ、自分にそんな意図はないと弁明した。

 沢村はそんな七木の狼狽具合に、可笑しさがこみ上げてきてしまったのである。

 酔っぱらい特有の機嫌の変りやすさも相まって、急に笑い出した沢村を七木はぽかんとした顔で見ていて、それがまた沢村の笑いのツボを刺激した。

 沢村は陰で自分を嘲笑っていると思い込んでいた七木の間抜けな少年のような一面に、自分の逆恨みがバカらしくなってしまった。

 通常なら、そんな程度のことでは人への印象など変わらない。だが、酒の力と七木の不思議な魅力のせいで、その後も少しずつ沢村からの七木への評価は変わっていった。

 そして、今では彼と最も仲の良い友人とも言えるうちの一人となっている。

「熱はもう引いたの?」

「うん、もう37度くらいしかないよ」

「じゃあパ●ロンは遅かったか」

「はは、たしかにそうかも」

「じゃあ次回にでも使って」

「そうさせてもらうね」

 七木はなおも心配そうに自分の顔を見つめる沢村に、いや本当に大丈夫だからねと軽く笑ってみせた。



 沢村が帰ってからしばらく後、七木は自分のベッドに横たわりながら暗い部屋の中で天井を見上げていた。

 随分長い間、目を開けたまままんじりともせずに天井を睨みつけていたが、彼はおもむろに上半身を起こすとぼそりと呟いた。


「――そうだな、何か、とんでもなく悪いことをしてみよう」


 何故か唐突に、彼はとんでもなく悪いこと――人としての倫理に抵触するような最悪のことをやってみようと思い立ったのである。

 それに対しての良心の呵責はなかった。

 何をするのか具体的に決めたわけではないというのもあるし、それに彼は今までの善行を『良心』から行ってきたわけではない。

 なんとなく、こうしたいな、と思ったからしただけである。

 だから今回もまた、彼が悪行をしたいと思ったその気持ちに逆らう理由はどこにもなかった。


 とはいえ、さて具体的に何をしようかと考える段階になって、彼は行き詰まった。

 思い立ってから数日。仕事をこなしながらも彼は頭をひねらせていた。

 何か悪いことをしたいという思いは日に日に強まっていく一方だったが、思いついたことはどれもこれも何か違う、という感覚があった。

 強盗、強姦、窃盗、詐欺、麻薬関係、エトセトラエトセトラ。

 思いつく先から否定する。

 やりたいことが決まらない苛立ちが募り、彼は極稀にではあるが仕事でもミスをするようになった。


 そんな彼に切っ掛けが生まれたのは、いつものように仕事をした日、その帰宅の途中でのことである。

 電車内で人の波にもまれながらモニターを何気なく眺めていた時に流れてきたニュースを見てのことであった。

 あ、これだ。

 彼の口からそんな呟きが漏れた。それは非常に小さな声で、周りに居た者でそれに気付いた人間はいなかった。


「七木クン」

 翌日、仕事の帰り際。沢村から声がかかった。

「なに?」

「飲みに行こう」

 有無を言わせぬ神妙な面持ちである。七木は一瞬だけ逡巡したが、すぐに軽く笑顔を浮かべて頷いた。

「ご一緒させてもらうよ」


 会社からほど近いチェーンの安居酒屋で、二人はビールと軽いつまみを頼んだ後に対面して座っていた。

「あのさ」

 沢村が口を開く。店に来る道中から、ずっと真面目な顔のままで口数も少なかった。普段の彼女からは考えられないような姿である。

「七木クン……今、何かよくないことを考えてない?」

「……どういうことかな?」

 七木はぴくりと眉を動かした。

「なんていうのかな。昨日までの七木クン、何か悩んでたでしょ?」

 窺うような顔をする沢村。七木は微笑み、無言で先を促す。

「今日は大丈夫みたいだったから、解決したのかな、と思ったんだけど」

 一度言葉を切り、二度ほど口を開きかけて、ようやく三度目、

「今日の七木クン、何かおかしかった。言葉にはしづらいんだけど、えーっと」


「人でも殺したい、って思ってるような感じ」


 七木の眉が再びぴくりと、先程よりも少し大きく動く。沢村は慌てて手を振った。

「ごっ、ごめっ、ごめん、言い過ぎた。意味分かんないよね、ごめん」

「いや……大丈夫。続けて」

「うん、ごめん。少し言い過ぎたけど、でも、何かひどいことをする前みたいな感じ」

「そう、かな?」

「気のせいじゃ、ないと思うんだけど」

 二人は束の間、口を噤んだ。酔客の笑い声が聞こえてくる。

 タイミングよく、店員がビールと枝豆を持ってくる。二人は無言でビールを一口飲んだ。

 先に口を開いたのは七木だった。

「沢村さんは、どう思った?」

 ぼそりと、下手をすれば聞き逃しかねない音量。

「え?」

「僕がそんな、ひどいことをする前みたいな感じに見えて、沢村さんはどう思った?」

「え……いや」

 視線をテーブルの上に彷徨わせる沢村。軽く、ごまかすように笑んでから言う。

「七木クンに限って、って思った」

「……。」

 七木は返事をせず、ジョッキを傾けた。顔が隠れる。

 一度喉が動き、ジョッキを置いてから、いつも通りの微笑で「そっか」と答えた。

「うん、ありがとう。でも大丈夫だから」

「……そ、れなら、いいんだけど」

 沢村は違和感を覚えたが、それを気のせいと信じて頷いた。

 それから二人は重かった雰囲気を払拭するように酒を飲み、益体のない雑談へと話題を移していく。

 二人の酒盛りは一時間半ほど続いた。


 その翌日、七木は仕事を『一身上の都合により』休んで自宅にいた。

 いつも通りの――否、いつもより、晴れやかな笑みを顔に浮かべている。

 手にはぎらりと鈍く光る金属。

 包丁である。

「うーん、やっぱり少し怖いものだなあ」

 そんなことを呟いて。

 七木は手にしたその切っ先を、無造作に己の首元に突き刺した。




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― 新着の感想 ―
[一言] 盲従という題名に込められた内容ですね。 善いことを善いことと認識してないと、その逆もまた然りと。 なんか最後の展開でバッと何か合致するものがきましたね。 二度読んでこそさらに楽しめる作品だと…
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