叙述トリック ~燃えるような夕焼けさえも青ざめる~
燃えるような夕焼けさえも青ざめる。
上半身裸の男の浮かない顔は、そんなありえないことでも起こせそうなほど沈んでいるように見えた。
「待たせたな」
男は見覚えのある女の背中に手を振り、丸テーブル越しに立った。
「さっきさ、芳子にふられちまったんだよ」
短髪で少し強面の男はそう言いながら女の正面ではなく、右の席に座った。彼の顔に真正面から真っ赤な日が当たる。
少し日の暮れた夏のビーチは、心なしかひんやりとしているように見える。
「ひどいもんだよ。婚約までしたのに。そう思わねえか?」
黒いサングラスをかけた女は、ジュースに刺さったストローから口を離し、夕日から男へと顔を向けた。海の家でずっと待ち合わせ相手の男を待っていた彼女は、きっとビーチの温度を知らない。
「芳子はいい女だったよ。ルックスだってスタイルだって、セックスだってよかった」
男はじっと赤い顔で夕陽を見つめている。隣の女をいやらしい目で見ることなどしない。
「ただ、性格が悪かった。だが、俺はそこに惹かれたんだ」
女は透き通るような白い顔でじっと男を見つめている。サングラスを外して男の顔色を疑うこともしない。
ただ、じっと見つめているのだ。
目元が見えないいので正確なところは分からないが、もの悲しそうにも見える。
「金を貸したら返さねえし、セックスだってもっとあっちだこっちだ指示を出してくるし。最初は俺を車としてしか扱ってなかったな。あれは大変だったよ。タダ働きのタクシードライバーだぜ。やってられなかった」
ふう、と男は冷たい息を吐いた。酒のにおいはしない。どうやら彼の顔の赤さの原因は酒ではなく、あの夕陽のせいらしい。
「だがな、俺は絶対に諦めたくなかった。芳子に寄りつく男が全員あの嫌な女に愛相尽かすまで諦めてたまるか。最後に笑うのはこの俺だ。そう何度心に決めたことか。諦めそうになる度だから、百は超えるな。その甲斐あってか、俺は芳子を抱くことも許されるようになったし、一週間前には婚約指輪だって受け取ってくれた」
ははは、と男はや自嘲気味に笑った。
女は笑わない。そして、そこで口を開けようという仕草を見せたが、男が制した。
「お前は俺の話をじっと聞いていてくれ。いや、聞き流してくれていてもいいさ。これは、俺の哀しい哀しいひとりごとだ」
女は眉をしかめた。口元はいかにも苦そうだ。その苦い顔に甘そうなスイカのジュースは似合わない。
「お前の言いたいことは分かるぜ。どうしてその話を私に、だろ。それはな、お前と芳子がよく似ているからだ」
男は、真っ赤に染まる夕焼けから目を離さずに続ける。
「見た目の話じゃないぜ。芳子はお前とは違ってパーマ巻いてたし、顔つきだって違う。胸だってそんなに貧相じゃない」
女は怒り心頭に発し、荒い声を上げそうな様子だったが、アクションを起こす前に「まあ待て」と男が掌を掲げて制した。
その掌は大きく、全てを包み込むような優しさがにじんでいる。その優しさのせいでたくさんの金と夢と思い出をドブに捨ててしまった虚しさも、はっきりと見て取れる。
「かといって性格の話でもない。俺はお前のことなんてそんなに知らねえが、違うと思うよ。俺が言ってるのは、雰囲気だよ。どこか寂しげだ」
女ははっとしたように眉間のしわを消した。
「芳子はな、いつも寂しそうなんだ。笑っている時だって、昇天した時だって。いつも目がどこか虚ろなんだよ。まるで穴が空いているみたいだった。俺たち男は、そんなぽっかり空いたような穴を埋めるのが好きなんだろうな。芳子が俺をパシリみたいに扱っても、俺には生きがいだった」
男のまっすぐな目は、あの水平線に浮かぶ夕陽に過去を写しているのだろうか。どこかもの寂しげだ。
「一か月前に初めて、芳子の心からの笑顔を見ることができた。俺が婚約を申し込んだ時だ。あの時だけは、ひとつも寂しげじゃなかった。俺は嬉しかったよ。穴を埋められたんだから」
女は男の体に視線を移した。こんがりと焼かれた肌。引き締まった体。八つに割れる腹筋。それより下は見たくても、テーブルが邪魔で見えなかったことだろう。この男に抱かれたら、と脳によぎったかもしれない。
「だが、さっきふられちまった。婚約解消だよ。その理由? 訊かないでくれ。俺が、最悪の男だったって、それだけだよ。それだけの、な……」
男の頬に透き通った液体がツーッと落ちた。
うるうるしたその目は、夕日を更に輝かせている。
「そんな時に見覚えのある背中を見かけたんだ。それが、お前だよ」
女は男の横顔をじっと見つめている。見とれているのかどうかは分からないが、彼の言葉に興味ありげのようだった。
「今思えば、芳子は人肌の温かさを求めていたんだろうな。過去に何があったかは知らねえが、きっとそうだよ。だから男に抱かれ、少しでも冷たさを感じたのなら捨てた。お前の背中も芳子の寂しげなところによく似てるよ。違うか?」
そこで初めて男は夕陽から目を離し、女を見た。
胸は貧相だが横からの赤い光で影が映り、セクシーだ。顔だって、サングラス越しにでも美人だと分かるくらい整っている。
そして、女は初めてサングラスを外した。その目は、せっかくの美人が台無しなほどに細くなり、男への訝しさがにじんでいた。
「どうだ? 俺の推理は間違っていたか?」
その言葉を聞き、初めて女は口を開いた。
「っていうかさ、あんた誰?」
知らない男からわけの分からない婚約解消話を聞かされた女の気持ちを考えると、燃えるような夕焼けさえも青ざめるほどだったことでしょう。




