春休みの始まり
「おいおい、とんだ冗談だぜ」
俺、青木翔平はひどく動揺し、混乱し、その虚構のようなシチュエーションに理解という言葉なんて到底行き着く余裕さえなかった。
(本当にここは日本か?)
俺は心の中で泣きつくように呟いた。
(何がいけなかったんだ?)
ついさっきもらった学年末の成績表は平均的だったし、警察沙汰になるような問題は起こした覚えがない。それなのに、なぜこれから始まる春休みの幕開けともいえる高二として最終日の放課後の帰宅中に、まるでハリウッド映画で主役が悪党に囲まれたかのようなシーンに巡り合ってしまったのか?
ただ、なぜか分からないが、そんな俺の心の中では不意に興奮と緊張が電撃のように体の隅々にまで痺れ渡り、例え今の状況が俺の人生最後の瞬間を迎えるかもしれないという時なのに、今はその気持ちで爽快な感覚だった。
この時に俺が暗に、ただ時間だけが過ぎ何らアクションのない日常が嫌だった、とは気が付く余裕もなかったが、後にそれを気づかせる要因となったのは十分に事足りた。
「青木翔平ですね?」
漆喰のように映る艶やかな黒で塗装されたベムツの高級車からは、ただならぬ妖気が感じられ、その助手席から出てきたボディガードか、または後部座席に身を潜める何者かの僕が、アーノルド・シュワルツェネッガーが映画で掛けそうなサングラスを外しながらそう言った。
「――――」
言葉なんて出せなかった。当たり前だ。いくら自分がこのような非日常を望んでいたのかもしれないが、それは唐突すぎて非現実すぎたのだから。
「我々は民間運送関連会社。通称・PTCという組織の者です」
(運送会社!? ふっざけるな! これのどこが――)
「表向きは主に運送を中心とした活動をしております」
その何者かの僕は補足説明した。
俺はさらに高揚した。
(表向き? なんかワクワクする言葉だな。オイ)
まさか俺にこんな人生が待っていたなんて、例えテレビで話題の占い師やそれに準ずる者たちであったとしても、このような転機が訪れようとは誰も予想しなかっただろう。
「詳しくは中で直接お聞きください」
その僕は、俺に一番近い後部座席のドアを開け、中に入るように促した。
車内にはその僕を統括する何者かの影が目に入る。
ここに来て再び、この場所が本当に日本なのか? しかも、普段歩き慣れている登下校路の住宅地なのか錯覚を起こした。
普段なら人影のあるはずの住宅路は、まるで地球上から人類が消え去ったかのように閑散とし、その夕暮れがこの世の終わりを物語っているようだった。
そしてそうさせているのが、その後部座席に腰をおろす何者かのオーラによる幻想だということも分かった。
(ヤバい!)
俺の中で恐怖の一文字がバラの花びらが開くように、心の中にあった動揺や混乱や興奮や緊張や、それらの全てを呑み込むように膨らみながら、そして開花させていった。
「幸村!! 彼を、ここに連れてきてやりなさい」
「かしこまりました」
何者かはその僕を突然呼んだかと思えば、次に優しい声で命令した。
(こっちに来る! 逃げなきゃ、ヤバい)
萎縮し、凝固した俺の脚は、脳からのパルス信号を神経から伝ってフルに送り込んでも、それはまるで一切の命令をもみ消した。
あっけなく捕まった。
もがく猶予も残されず、ただ人形と化した俺の身体は、その僕の操るままに後部座席へと入れられ、扉を閉められた。
隣には、左手にソーサーを、右手に暖かそうな湯気を出すティカップを持った、若く二十代半ばであろう青年が、タキシードを身にまとって腰をおろしている。
「おやおや? そんな威嚇しなくても、我々は貴方に危害を与えるつもりはありませんよ」
俺と聊か違う年のくせに、その青年のあざ笑うかのようなしゃべり方からは、まるで俺が何か大きな勘違いをしているようで、ウザったく思った。
しかし、さっきまでの青年のオーラによる恐怖感というのが、彼自身のやや紳士的な対応のせいで徐々に効力を失い、俺の四肢も思うように動くようになった。
「申し遅れました。私の名はラブ・ストーリー。ラブと呼ばれています」
(ラブストーリー? コードネームみたいなのか?)
「ご名答。それはコードネームということです」
(!?)
訳が分からなかった。
なぜ俺の考えていることが理解できるのか?
考えてみたら簡単なことかもしれない。例えば彼の脳の情報演算能力が他のそれとは比べ物にならないほど高速かつ正確で、こう言ったらああ言ってくるだろうという予測ができるのではないかとか。
まあ実際のところ彼らのいる世界はそんな王道にあるはずもなく、ってとこだろうな。
まったく。何をされるかと思ったが、俺の思考の一人歩きのようだったし、そもそも彼からは何となくだが過去に俺と慣れ親しんだ、そんな愛着が、いやもしかしたら執着だったのかもしれない。そんな想いが微かにだが蘇ってきた感じがした。
「本日をもって、あなたは我が社の社員としてせっせと働いてもらいます!」
ラブストーリーは、右手に持ったティカップを俺に向け、それは祝福を表すような乾杯をした。が、
(全く意味が分からん……)
「そう! この世は常に理不尽であり、その運命に理由というのは本来必要のないものなのかもしれません。この世に結果があるのならば必ず原因があるとよく言われます。が、ならどうでしょう? 例えばあなたが六つの数字を選ぶ宝くじの一等に当選したとしましょう。そういう結果がでた。しかしその原因はなんだろうか? あの時、一つ違う数字にマークしていたら、それはきっと一等ではなく二等だったはずだ。もう一つ違えばそれは三等……」
「な、何が言いたいのです?」
俺はここでようやく、ネバネバと乾いた口を開いた。
「原因があるものだから必然として結果が出る。原因がないものだから偶然として結果が出る。恐らくあなたの望むものは先の見えない偶然の人生なのではないだろうか? 定められた一本のレールという人生を、ただ時間というベクトルだけ進むのか? 空をはばたくように、その分岐点を二つ、三つ、いや、空には道なんてものは無い。そう。自分で切り開きながら進むのか?」
ラブはテーブルの上に置いてあるティポットを手に取っては、それの中身をカップに注いだ。そしてそのティカップを俺に渡した。
「喉が粘ついているだろう? 飲みたまえ」
(いや、それアンタの口づ――)
「どうです? もし今まで通りの何もない人生を望むのならば、その中身を車の外に溢し、立ち去ってくれて結構だ。しかし我々と共に、愉快で先の見えない、誰も先を決めることのできない極上の人生を望むのであれば、それを飲み干したまえ」
俺はそのティカップを受け取った。
(これを飲めば俺の望んだ非日常の世界に行ける。捨てたら今まで通り日常の世界が待っている……)
俺はニヤついた。これほどまでに非日常の世界を味わらせてくれた神様仏様に対してだ。
「そんなこと、決まってるじゃねぇかよ!」
「さあ飲みますか? 捨てますか?」
ラブは目を見開き、大声を出し、息を荒げて高揚した。
しかし、その高揚しきった顔の冷めようを見るのは、ひどく愉快であった。
ビチャビチャ
車の外には、まだ湯気の立つ透き通った紅色のお茶が、近くの側溝に向かって一本の道を切り開くように造っていく。
「フッ。俺の人生は俺が切り開きながら造っていく、アンタらの手助けなんて不要だ」
俺は車から足を出し、その漆喰で艶やく扉をバタンと閉めた。
側溝に向かうお茶の行路は、そこに行きつく直前で動きを止めた。側溝へは流れ着かなかった。