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悪役令嬢は兄の注文です

作者: 阿久屋 九零乗
掲載日:2026/09/18

 兄の婚約者が社交界で悪役令嬢と呼ばれているらしい。そう聞かされたエミリア・グレイヴは紅茶を吹き出しかけた。伯爵令嬢としての意地でどうにか飲み込んだものの今度は咳が止まらなくなった。向かいに座っていた令嬢はエミリアを気遣う言葉を挟みながらも声を潜めて話を続けている。


「ヴィオレッタ様はジュリアン様を人前で立たせたままご自分だけお座りになったそうです。それどころか差し出された花を気に入らないと突き返したとか」


「兄が何か失礼をしたのではなくて?」


「まあ。そうだとしても婚約者にあのような態度を取るなんて恐ろしいでしょう。先日の音楽会でもジュリアン様を呼びつけて随分と厳しいお顔で何か命じていらしたそうです」


 エミリアは曖昧に笑って話を終わらせるしかなかった。この令嬢は兄の婚約者を貶めたいのではなく珍しい出来事を誰かに話したくてたまらないのだろう。話に出てくる目撃者たちも同じような調子で噂を伝えているらしい。悪意を持つ誰か一人が言いふらしているのならともかくこれでは誰の口を塞げば済むという話でもない。


 ロズウェル侯爵令嬢ヴィオレッタは三か月前に兄ジュリアンと婚約した。顔合わせの席で見た彼女は礼儀正しく家同士の結びつきについて現実的な意見を述べる女性だった。笑顔こそ乏しかったものの悪意や傲慢さを感じた覚えはない。


 ところが話を聞く限り婚約の発表後に彼女の評判はひどく悪くなったようだ。婚約者を顎で使い贈り物には容赦なく駄目を出すという。ほかの令嬢がジュリアンに近づけば冷たい視線を向けるとも聞かされた。三日前にはついに悪役令嬢という呼び名まで付いたそうだ。


 家の評判を考えるなら父か母に相談すべきなのだろう。しかし確かめてもいない噂を告げ口すれば両家の関係に余計な亀裂を生みかねない。エミリアは帰りの馬車に乗り込むと向かいの席に座ったリディアに尋ねた。


「あなたはヴィオレッタ様の噂を知っていた?」


「存じております。お嬢様のお耳に入るのも時間の問題だと考えておりました」


「なぜ教えてくれなかったの」


「私もまだ確かめているところでした。お嬢様に申し上げたらすぐにご自分で調べにいらっしゃるでしょう」


 つまりリディアは主人が首を突っ込む前に自分で確かめておきたかったらしい。すでにエミリアは調べるつもりでいるのだから主人についての予想は当たっている。兄に直接聞くのが最も早いものの妹には打ち明けにくい事情もあるだろう。本人に断りなく動く以上まずは自分の目で確かめておきたかった。


「次の夜会で二人の様子を見るわ。あなたも手伝ってちょうだい」


「承知しました。ただし物陰から婚約者同士を監視する行為が常識的かどうかはご自身でお考えください」


「家族の危機を防ぐためよ」


 リディアは反論せずに馬車の窓へ目を向けてしまった。言葉を重ねたところで味方が増えるわけではなさそうなのでエミリアもそれ以上の弁解はやめた。


     ◇


 四日後の夜会が開かれた王立美術館には二人の様子を窺うのに都合のよい庭園があった。刈り込まれた生け垣が小道を隠し要所には休憩用の東屋が設けられている。会場の喧騒を避けて庭へ出る客に紛れればエミリアも目立たずに済みそうだった。


 ヴィオレッタを見失う心配だけはしなくて済みそうだった。深紅のドレスに長い黒髪を流した姿は夜の庭でも目立ち、その数歩後ろを歩く兄もすぐに見つかった。二人が東屋に入ったのを確かめてからエミリアは隣の生け垣まで近づいた。


「お嬢様。枝が髪飾りに引っかかっています」


「今は放っておいて。声が聞こえなくなるわ」


 リディアは返事をする代わりに髪飾りから枝を外してくれた。覗き見には反対でも最後まで付き合ってくれるメイドに感謝しながらエミリアは葉の隙間に顔を寄せた。


 東屋ではヴィオレッタが長椅子の中央に腰を下ろしていた。兄は噂どおり立ったままで彼女に白い薔薇の花束を差し出している。ヴィオレッタは花を一瞥すると扇を閉じてジュリアンの手元を示した。


「白い薔薇を選んだ理由を説明なさい」


「君の黒髪に映えると思ったんだ」


「答えになっていませんわ。わたくしが本日着る衣装の色は事前に伝えたはずです。深紅のドレスに白い花を合わせれば花束だけが浮いて見えると想像できなかったのですか」


「すまない。次は衣装との調和まで考えるよ」


 確かにこれでは厳しすぎると言われても仕方がない。贈り物を受け取る側の態度として好ましいとは言えず、兄も反論するどころか素直に謝っている。エミリアが踏み込むべきか迷っているうちにヴィオレッタは花束を受け取って隣に置いた。


「及第点にも届きません。次はわたくしを失望させないことね」


「ヴィオレッタ。もう少し冷たく言ってもらえないだろうか」


 エミリアは思いがけない言葉によろめき生け垣に額をぶつけた。葉が揺れて乾いた音がしたものの東屋の二人は話をやめない。ひとまず見つからずに済んだが兄が今何を頼んだのか確かめる必要があった。


「今のでは足りませんの?」


「君が花を受け取ってくれたから結局は許されたように感じる。花束を足元へ落として拾う価値もないと言ってもらえると嬉しい」


「それでは花が傷みますわ。帰ったらわたくしの部屋に飾るつもりですもの。そこまではできません」


「では僕に持たせたまま話を続けるのはどうだろう。腕が疲れても下ろすことを許さないというのは」


「悪くありませんわね」


 ヴィオレッタは長椅子に置いた花束を再び兄に渡した。ジュリアンが両手で胸の高さに掲げると彼女は足を組み替えて相手を見上げる。無茶な頼みに困っているようにはとても見えなかった。


「あなたの気遣いはいつも肝心なところが抜けています。わたくしに仕えるつもりがあるのなら好みの一つくらい完璧に把握なさい」


「婚約者としてではなく君に仕える者として?」


「余計な口を挟まないで。今はわたくしが話しているのです」


「ああ。すまない」


 謝っているはずの兄の声が普段より弾んで聞こえた。領地の収支が予想以上に改善した報告を受けたときでさえあれほど分かりやすく喜びはしなかった。ヴィオレッタも扇で口元を隠しているが紫色の目は楽しげに細められている。


 どうやら兄は助けを求めていないし助けられたくもないらしい。心配の種が消えたはずなのにエミリアは二人の顔を見るのがつらくなってきた。


「戻りましょう」


 エミリアはリディアに囁いて生け垣から離れようとした。枝に袖を取られたため一度だけ振り返ったが、東屋では兄がまだ花束を掲げている。リディアは枝から袖を外すと何も言わずに主人の後に続いた。


 会場まで戻ったエミリアは人のいない廊下に入るなり壁に手をついた。少なくとも兄が婚約者に虐げられて苦しんでいるわけではなかった。しかし悪役令嬢の正体を確かめに行って兄の趣味を暴くことになるとは馬車の中では考えてもいなかった。


「今の会話を忘れられると思う?」


「記憶を失うほど頭を打てば可能かもしれません。ですが生け垣に額をぶつける程度では難しいかと」


「試すつもりはないわよ」


「安心いたしました」


 リディアは庭にいたときと変わらない顔をしていた。この女は兄の発言を聞いて何も感じなかったのだろうか。それとも長年の奉公で表情を殺す技術が極まっているのか。どちらにしてもエミリアが真似できることではなかった。


「ねえ。あれはよくあることなのかしら」


「ほかの方のそうしたご趣味までは存じません。わざわざ調べたこともございませんので」


「そうよね。私もないわ」


 さてこの件を両親にどう報告したものだろうか。ヴィオレッタが一方的に兄を虐げているわけではないのだから婚約を止める理由にはならない。二人が納得しているのなら当人同士で好きにすればよいが、その演技で侯爵令嬢の悪評が広まっている以上は放っておけない。


 エミリアは壁から手を離して会場の方角へ向き直った。明日まで考え続けたところで気持ちよく眠れるはずがない。まずは兄をつかまえてこれからどうするつもりなのか聞き出すほかになかった。


「二人を呼んできて。西側の小客室を借りるわ」


「お嬢様からお呼びになったほうがよろしいのでは?」


「今すぐ兄の顔を見ると笑うか怒るかしてしまいそうなの」


「どちらもお見せしたくはないということですね」


「お願いだから確認しないで」


 リディアはエミリアに一礼して庭園へ戻っていった。廊下に残されたエミリアは両手で頬を挟み伯爵令嬢として通用する表情を作る練習を始めた。


 待っている間に二人の婚約が決まった日のことを思い返した。初対面のヴィオレッタは領地間の水運整備について父と話し込み、ジュリアンが口を挟む余地もないほど的確な質問を重ねていた。話が終わると聞き疲れたエミリアに菓子を勧め好みが分からないからと三種類の皿を寄せて選ばせてくれた。


 あの女性が理由もなく婚約者を傷つけるとは思えなかった。それでも噂を聞いて不安になったのは兄を見誤っていたせいだったらしい。まさか悪役令嬢のように振る舞ってほしいと自分から頼んでいるなど妹として知りようがなかった。


 やがて庭園から戻った二人の姿が廊下の奥に現れた。ジュリアンは白い薔薇の花束を持ち、ヴィオレッタはその腕に手を添えている。先ほどまで厳しく命じていた女性が段差の手前で婚約者に注意を促す様子は、噂に聞く悪役令嬢とは似ても似つかなかった。


 ところがエミリアと目が合うなりヴィオレッタは兄の腕から手を離した。いつもの隙のない表情に戻っても直前の気遣いを見なかったことにはできない。これから説明を求めるのも馬鹿らしくなるほど二人は仲がよさそうだった。


     ◇


 西側の小客室へ入ってきたジュリアンは妹の顔を見るなり何かを察したらしい。ヴィオレッタのために椅子を引いた後自分は扉に近い席に腰を下ろした。庭で満足そうに花束を掲げていた男と同一人物とは思えないほど慎ましい。


「何か話があるそうだね」


「ヴィオレッタ様が悪役令嬢と呼ばれている件についてです」


 その呼び名を口にするとジュリアンの顔から笑みが消えた。ヴィオレッタは姿勢を崩さなかったものの膝の上で扇を握り直している。この反応なら二人とも噂の存在そのものは知っていそうだった。


「どこまで広まっていますの?」


「兄を立たせたまま自分だけ座る。贈られた花を気に入らないと突き返す。命令に従わせて喜んでいる。おおむね事実ですね」


「最後だけは訂正させてほしい。喜んでいるのは僕だ」


「お兄様は黙っていて」


 反射的に命じるとジュリアンは背筋を伸ばし口元をわずかに緩めた。エミリアは今後兄に強い言葉を使うまいと心に決める。兄妹の会話に妙な喜びを見いだされた日には同じ屋敷で食事を取れなくなりそうだった。


「事情は聞きました。お兄様がヴィオレッタ様に頼んだのですね」


「どこでそれを?」


「白い薔薇の花束を差し出すところから見ていました。花の色を選んだ理由もその後の注文もすべて聞きました」


 ジュリアンは妹の言葉に堪えかねたように片手で顔を覆った。あの場面を見られたことはさすがに恥ずかしいらしい。ヴィオレッタも目を伏せたが彼女の口元には庭で見たものと同じ笑みが浮かんでいる。


「ヴィオレッタ様は困っていらっしゃるのですよね」


「もちろんですわ。わたくしは婚約者の評判を傷つけたいわけではありませんし、ロズウェル家の娘が傲慢だと思われるのも不本意です。ジュリアン様のお願いに応じているだけですもの」


「では今後は人前で演じるのをおやめになりますか」


「それは……ジュリアン様が残念がるでしょう」


「兄の希望はひとまず考えなくて結構です。ヴィオレッタ様ご自身はどうなさりたいのですか」


 ヴィオレッタは答えずに膝の上の扇へ目を落とした。指先で要の部分を何度も撫でているがエミリアは助け舟を出さずに待っていた。やがて彼女は扇から指を離すとエミリアの顔を見据えた。


「節度を守った上で続けたいと考えております」


「続けたいのですね」


「最初は戸惑いましたのよ。ただジュリアン様は注文が細かく同じ叱責では満足なさらないのです。状況に応じて言葉を変えなければなりません。難しいからこそ工夫の余地がありまして」


 ヴィオレッタは扇を膝に置きドレスのポケットから小さな手帳を取り出した。黒革の表紙を開くと細かな文字が何頁にもわたって書き込まれている。エミリアの位置から本文までは読めなかったが、見出しの「贈答品」「遅刻」「服装」「嫉妬」という文字は拾えた。


「先ほどの白い薔薇については即興でした。衣装との調和を持ち出したのは悪くなかったと思いますが途中で花を受け取ってしまったのは失敗ですわね。次は手袋を汚したくないと言ってもうしばらく持っていていただくつもりです」


「ヴィオレッタ」


「いけませんわ。今はわたくしがエミリア様と話しています」


「すまない」


 兄は叱られたというのに嬉しそうに口を閉じた。ヴィオレッタは手帳に挟んでいた筆記具を取り今のやり取りを書き留めている。相談の途中でまで台詞を増やすことに余念がない女性に向かって、無理をしなくていいと声をかけるべきなのだろうか。


「私が心配した時間を返してください」


「すまない。誰かを困らせるつもりはなかったんだ」


「すでにヴィオレッタ様がお困りです。あなたの頼みのせいで悪役令嬢と呼ばれているのですよ」


「その点は僕から説明する。彼女に強引な頼みをしていたことも認めよう」


「それではお兄様の嗜好が社交界全体に知れ渡ります」


 ジュリアンは説明の続きを言いかけた口を閉じた。婚約者にどう扱われたかで領地経営の腕が落ちるわけではないが、社交界の人々がそこを切り分けてくれる保証はない。ヴィオレッタの悪評を打ち消しても今度は兄が別の呼び名を付けられるだけだろう。


「噂だけならまだよかったのですが」


 ヴィオレッタは手帳を閉じてエミリアに向き直った。さっきまでの笑みは消え顔合わせの席で領地の話をしていたときの表情に戻っている。


「来月に予定していた慈善市の協力者から参加を見合わせたいとの手紙が届きました。婚約者さえ大切にしない令嬢に寄付を任せられないという理由です。父は別の者を責任者に立てると申しましたがそれでは噂を認めるのと同じでしょう」


「なぜ僕に言わなかったんだ」


「お伝えすればご自分の頼みを公表してでも訂正するとおっしゃるでしょう。今も同じことを口になさいました」


 ジュリアンは何かを言おうとして結局は黙ってしまった。数分前に自分が口にした言葉を突きつけられたのだから反論のしようもない。放置してよい話ではないがヴィオレッタも兄の名誉を傷つけずに済ませたかったのだろう。


「慈善市にはグレイヴ家も協力できるよう父に話しましょう。ヴィオレッタ様は責任者のままで両家で取り組むと発表するのです。婚約者の家族が協力していると知れば寄付をためらっている方にもお話ができるはずです。お二人が不仲だという噂も今よりは収めやすくなります」


「助かりますわ。わたくしからも父に相談します。グレイヴ家の負担が増える分はこちらから人員を出せるように」


「詳しい分担は後日決めましょう。ただその前に、お二人には今後どこで何をなさるか考えていただかないと困ります。人目のある場所で演じるから噂になるのです。これからは二人きりの場所でなさってください」


「しかし二人きりでは普段のヴィオレッタは優しいから途中で笑ってしまうんだ」


「知りません」


「誰かに見られるかもしれない緊張感が必要ですの。もちろん実際に見せたいわけではございません」


「今夜は実際に見られましたけれど」


 二人は打ち合わせでもしていたかのようにそろって目をそらした。不仲で婚約が破談になる心配はもうしなくてよさそうだが仲がよければ安心というものでもないらしい。今後も何か問題が起きるたびに二人並んでこんな顔をされるのかと思うと頭が痛かった。


 エミリアは話を切り上げて机の上の呼び鈴を鳴らした。控えていたリディアが入室すると紙と筆記具を用意するよう頼む。兄とその婚約者を向かいに座らせたままエミリアは今ある噂をどう収めるか考え始めた。


「まず次にご一緒する三回の席では穏当に振る舞ってください。ヴィオレッタ様は兄から贈られた品を一つ身につけていただけますか。お兄様は命令されなくても椅子に座ること。ほかの令嬢とお話しするときにはヴィオレッタ様にも加わっていただいてください」


「わたくしがジュリアン様へ優しくするのですね」


「演技ではなく普通に接してくだされば結構です」


「承知しました。ですが三回すべて同じではわざとらしく見えませんか。最初の夜会では仲のよいところを見せて、次の茶会では普通にお話をして。三度目の観劇会ではわたくしから贈り物をするのはどうでしょう」


 ヴィオレッタは手帳の新しい頁を開いて今度の予定を書き始めた。普通に接すればいいと言ったばかりなのに彼女には場面ごとの筋書きが必要らしい。エミリアが兄に目を向けるとジュリアンは婚約者の横顔を満足そうに眺めていた。


「それで構いません。ただし打ち合わせはご自宅でしてください。庭園や廊下の隅は二人きりの場所ではありません」


「肝に銘じるよ」


「返事だけで終わらせないでくださいね。厳しく命じてもらいたいなら相手がどう見られるかも考えてください。ヴィオレッタ様が頼みを断らなかったから問題ない、では済まないのです。お兄様には楽しい夜会でも相手は寄付を任せられないとまで言われているのですよ」


「そのとおりだ。僕の考えが足りなかった」


 今度は兄の返事を聞いても喜んでいるようには思えなかった。ヴィオレッタも手帳を閉じてジュリアンに厳しい視線を向けているが庭にいたときのような笑みはない。その顔を見た兄はそれ以上口を挟まずに彼女の言葉を待っていた。


「わたくしにも責任があります。噂に気づいた時点でやめるべきでした。それでも続けたのはジュリアン様のためだけではございません。わたくし自身も楽しんでおりました」


「それは見れば分かります」


「やはり分かってしまいますの?」


「手帳まで作っている方を嫌々付き合わされているとは思えません」


 ヴィオレッタはとうとう堪えきれずに声を上げて笑った。人前で作る微笑みのぎこちなさはすっかり消えている。これほど楽しそうに笑えるのだから普段はよほど顔を引き締めているのだろう。


「エミリア様には隠し事ができそうにありませんわね。将来の義妹があなたで安心いたしました」


「私は今日だけで将来の身内に対する不安が増えました」


「ひどいですわ」


 ひどいと言いながらもヴィオレッタは笑うのをやめなかった。ジュリアンも妹に謝ってはいるが表情が随分と和らいでいる。秘密を知られたことよりも婚約者への誤解が解けたことを喜んでいるのかもしれない。


 エミリアは二人の顔を見比べて長く息を吐いた。こんなのと身内になるのかと思ったがよく考えると片方とは最初から身内だった。これから二人そろって家族の食卓につくのだと思うとしばらく兄の隣の席には座りたくなかった。


     ◇


 その後の三週間でヴィオレッタの評判は持ち直した。最初の夜会ではジュリアンから贈られた紫水晶の耳飾りを身につけ自分から彼の腕を取った。次の茶会では領地間の輸送路について対等に意見を交わし、三度目の観劇会ではヴィオレッタから銀の留め具を贈っている。


 悪役令嬢という呼び名は完全に消えたわけではない。それでも二人の仲が険悪だという話は聞かれなくなり、以前の振る舞いも気位の高い侯爵令嬢と婚約者の戯れだったのだろうと受け取られ始めた。詳しい注文内容を伏せておけば実態ともさほど違わない解釈だった。


 エミリアはグレイヴ伯爵邸の応接室で報告を聞き終えると向かいに座るリディアに菓子皿を差し出した。勤務中だからと断られたので自分の分だけを一つ取る。慈善市の分担は改めて話し合うとしても、今は兄とその婚約者を案じながらお茶を飲まずに済むことがありがたかった。


「噂のほうはひとまず落ち着いたわね。お兄様もヴィオレッタ様も人前では節度を守るようになったわ」


「昨夜は侯爵邸の書斎で二時間ほど打ち合わせをなさったそうです」


「何の打ち合わせかは聞かないでおくわ。扉と壁がある場所なら好きにすればいいのよ」


「お嬢様は寛大でいらっしゃいます」


 わざわざ寛大だと言われると素直には受け取れなかった。十年来の付き合いになるリディアは面と向かって悪口を言わない代わりに、言わずに済ませてもよいことを時々付け足す。今回もただ感心して言ったのではないことぐらいはエミリアにも分かった。


「何か言いたいことがあるなら言ってちょうだい」


「お互いに承知していることでしたら人の好みはそれぞれかと。お嬢様も人にはあれこれ言われたくないでしょう」


「私もそう思うわ。今回は他人ではなく兄だったから驚いただけよ」


 エミリアが菓子を口に運ぼうとしたところで応接室の扉が二度叩かれた。入室を許すと若い従僕が顔を出しノエル・ハートリーが訪ねてきたと告げる。ハートリー子爵家の次男でエミリアが交際している相手だった。


「すぐにお通しして。温室で採れた果物も持ってきてちょうだい。ノエルは朝から研究室にいたはずだからお腹を空かせていると思うの」


「昼食を召し上がってから来られるのでは?」


「あの子は夢中になると食事を忘れるのよ。昼食を取ったと言ってもパンを一つかじった程度に決まっているわ」


 従僕が承知して退出するとエミリアは卓上の菓子を見直した。蜂蜜を使った焼き菓子はノエルの好物だが午前中から置かれていたため表面が乾き始めている。自分が食べるには構わないものの彼には新しく焼いたものを出してやりたかった。


「リディア。料理長に蜂蜜の焼き菓子を作れるか聞いてきて。夕食には茸の煮込みも加えてもらいましょう。ノエルは先週あれを気に入っていたもの」


「ノエル様が夕食まで滞在されるとは聞いておりません」


「せっかく来たのだから引き留めるわ。それから客間に置いてある深緑の上着を持ってきて。先日選んであげた服をまだ着ていないのよ。今日は合わせてみてもらいたいの。あの色なら髪によく映えるはずだわ」


 リディアは頼みを聞いて一礼したものの席を立たなかった。視線が卓上の菓子からエミリアの顔へ戻り何か言おうか迷っているように見える。


「まだ何かあるの?」


「お嬢様はジュリアン様のご趣味を知り随分と呆れていらっしゃいました」


「当然でしょう。婚約者に悪役を演じてもらって喜ぶなんて普通ではないわ」


「さようでございますか」


「その顔は何よ」


 リディアの表情だけを見ればいつもと違うところはない。それでも視線が行き来した先を思い返せば何を言おうとしているか察しがついた。問いただしたのは自分なので聞きたくないから仕事に戻れとは言いにくかった。


「ノエル様がお顔を見せる前から食事もお召し物も用意なさるのですね。年下のあの方に頼られるのがお好きなのは承知しておりますが、そこまで楽しそうになさるお嬢様が兄君を笑ってよいものかと」


「私はノエルを困らせていないわ」


「ノエル様も困ってはいらっしゃいません。むしろお嬢様に世話を焼かれるため昼食を軽く済ませてくることがございます」


 新たな事実を知らされたエミリアは手にしていた菓子を皿に戻した。ノエルは自分が心配することを知りながらわざと空腹を残して訪ねてきているらしい。年下らしい無邪気な甘え方だと思いかけたところでリディアの指摘が正しいことを認めざるを得なくなる。


「でも私は二十二歳でノエルも二十歳なのよ。二歳違うだけで年下の子を甘やかす趣味だなんて大袈裟でしょう」


「ええ。たった二歳しか違わない方を随分と幼く扱っておいでです。お嬢様が十二歳の頃からお仕えしている私にはただ年上として気遣っているだけとは思えません」


「だから二歳年下というだけで決めつけないでほしいのよ」


「年の差ではなくお嬢様のお好みを申し上げております」


 扉の向こうから従僕に礼を言うノエルの朗らかな声が聞こえた。エミリアはせめて一言は返そうとしたものの本人が入ってくるまでにリディアへの反論を思いつけなかった。


「エミリア。突然来てごめん。新しく育てた花が咲いたから最初に見せたかったんだ」


 ノエルは土の入った小鉢を両手で抱えていた。淡い黄色の花が三輪咲いており、袖口には土が付いている。本人はそれに気づいていないらしく褒められるのを待つ子供のような顔でエミリアを見ていた。


 まず袖口についた土を払ってやらなくてはいけない。空腹ではないか聞いて手を洗わせ、それから焼き菓子を食べさせたい。花を存分に褒めて話を聞き終えたら深緑の上着も合わせてみよう。


 そこまで考えていたエミリアは開きかけた口を閉じた。リディアが横から何も言わずにこちらを見ているではないか。さっきの指摘から何分も経たないうちに袖へ手を伸ばすわけにはいかなかった。


「どうしたの? 顔が赤いけれど具合でも悪い?」


「何でもないわ。あなたは昼食をきちんと食べてきたの?」


「パンは食べたよ」


「パンだけでしょう」


「研究の続きが気になっていたから。でもエミリアなら何か食べさせてくれると思って」


 ノエルは困らせることを言った自覚もなさそうに笑った。本人があっさり認めてしまったのでエミリアは額に手を当てるしかない。兄の秘密を知った夜もそうだったが一度聞いた言葉は聞かなかったことにできないのが厄介だった。


 リディアは何も言わないが黙っていられるほうが居心地が悪かった。さっきは兄が頼んでまで役を演じてもらうことに呆れていたのに、今度は自分が恋人の望む世話役になろうとしている。相手が喜ぶのだから構わないと言い張れば、それこそ兄たちに返されるだけだった。


「リディア。今考えていることを口にしたら明日の休暇を取り消すわよ」


「何も申し上げておりません」


 リディアは叱られた様子もなくいつもどおりの礼をした。伏せられた顔の口元がわずかに緩んでいるのは見えたがこれ以上問い詰めて得をするとも思えない。エミリアはメイドから目を離してノエルの抱えた鉢を受け取った。


「きれいに咲いたわね。詳しい話を聞かせてちょうだい。その前に手を洗ってきなさい。焼き菓子と果物を用意させるから」


「ありがとう。やっぱりエミリアのところへ来てよかった」


 喜ぶノエルを見れば世話を焼くのをやめる気にはなれなかった。あの夜の兄も同じだったのだろうと思うと認めるのが悔しくなる。少なくとも次に兄の嗜好について何か言うときはリディアのいない場所を選ばなければならない。


 エミリアは将来の義姉が書きためた叱責の手帳と、これからノエルに着せる深緑の上着を思い浮かべた。こんなのと身内になるのかと嘆いていたが迎える側も大差はないと言われればそれまでだった。エミリアはノエルから受け取った鉢を抱えたままため息をついた。

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