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鏡花水月  作者: 安達夷三郎
第三章、嵐の前触れ
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12/20

11話

夕暮れ時の鬱蒼とした森の中を、私と桃李と重治が疾走していた。

生い茂る木々の間を、重治が駆け抜ける。行く手を阻む大きな倒木を軽やかな跳躍で飛び越え、太い幹を蹴ってさらには二段超え。着地の瞬間に滑らかな前転を挟んで衝撃を和らげながら、まるで風そのもののように移動していく。

その後方から、私と桃李が追う。剣術は桃李の方が上だが、純粋な体力なら間違いなく重治の方が上だ。

疾走する重治の背中は、まるで獲物を追う獣のようだった。

重治によって突然開催された、この『実戦勘を取り戻すための特訓』。

そのクリア条件は、制限時間一時間以内に、逃げる重治の体にどちらか一人がタッチすること。

私は頭上の太い枝を掴むと、振り子の要領で全身を前方へと加速させ、重治の背後に向かって飛び込んだ。しかし、私の指先が届くより早く、彼はすでに別の木の上へと予測のつかない軌道で飛び移っていた。

「はぁ、はぁ、っ……くそ、すばしっこ……!」

ふと隣を見ると、桃李が顔をしかめて横腹をきつく押さえていた。

平地での剣術の訓練なら何時間でも涼しい顔でこなす彼だが、この足場の悪い、先も見通せない森での泥臭い長距離走は、確実にその体力を根こそぎ削り取っている。

走るペースが目に見えて落ち始めていた。

だが、前方を走る重治は相変わらず楽しげに木々の間をすり抜けていく。

「どうした桃李、もうバテたか!紫乃も足元がおろそかになって遅れてるぞ!」

「待てっ!」

後方から、息も絶え絶えな桃李の叫びが響く。

「待たない」

重治は振り返りもせず、息ひとつ切らさない平坦な声で言い放った。

「だったら……!」

ニヤリと不敵に笑った桃李は、上着のポケットから何かを取り出し、思いっきり重治の背中に向けてぶん投げた。

それは手のひらサイズの木剣だったが、空気を切り裂くような鋭い弾道で飛んでいく。

しかし、重治はそのすべての軌道を、わずかに首を振るだけで完全に回避した。まるで見えない壁でもあるかのように攻撃が重治まで届かない。

「そこまで。時間切れだ」

重治がピタリと足を止め、木漏れ日の中で振り返った。その呼吸は驚くほど乱れておらず、額に薄っすらと汗を浮かべているだけで、相変わらず涼しい顔をしている。

「はぁーっ、クソ……! あとちょっとだったのに……!」

桃李はその場にガクリと膝をつき、肩を大きく上下させながら地面の落ち葉を悔しそうに叩いた。私も近くの細い幹に背中を預け、燃えるように熱い肺を落ち着かせようと必死に酸素を吸い込む。

「桃李、最後の一撃は悪くなかったが、軌道が直線的すぎたな。それに紫乃、途中で足音が大きくなっていた。平八が相手なら、落ち葉を踏むその微かな音だけで位置を特定され、先手を打たれているぞ」

重治は手際よく木刀をまとめ、小脇に抱えながら冷淡に言い放った。相変わらずの正論に、私は言い返す言葉を失って「うぐっ」と喉を鳴らす。

「重治ぅ……ちょっとは俺達の言い訳に優しさってやつを見せろよな……体力オバケめ」

桃李が恨めしそうな顔で、地面に座り込んだままジャージの膝についた泥や枯れ葉をパッパと払った。

「優しさで平八の刃が鈍るなら、いくらでも甘やかそう。だが現実は違う。あいつは躊躇なく俺達の隙を突いてくるぞ」

重治はそう言うと、私達が走ってきた森の奥へと鋭い視線を向けた。

夕暮れ時の赤黒い光が木々の隙間から差し込み、不気味な長い影を地面に落としている。風が吹くたびにザワザワと騒ぐ葉の音が、まるで誰かの囁き声のようにも聞こえて、私は思わず自分の腕をさすった。

「……でも、さすが重治。こんな森、勝手に使ったら怒られそうなのに、よく場所なんて見つけてこれたよね」

張り詰めた空気を変えたくて私が尋ねると、重治はふっと視線をこちらに戻し、いつもの至極真面目な顔になった。

「勝手に使うわけがないだろう。ここは民有地と公有地が入り組んだ私有林の一部だが、現在は管理団体の許可や手続きがあれば、オリエンテーリングや特定の調査目的で立ち入りが認められる区画だ。『夜間の自主的な山岳防災フィールドワークおよび、不審者遭遇時の暗所避難シミュレーション』として、事前にきっちり使用許可の手続きを通しておいた」

「熱意が凄い!」

桃李の全力のツッコミに、重治はフンと鼻で笑う。

「おい、いつまでそうしている。日が暮れるぞ」

重治がそう言って、すでに薄暗くなり始めた森の出口へと歩き出す。私と桃李は顔を見合わせ、慌ててその後を追った。

家に帰る道中、自動販売機でジュースを奢ってもらった。

「一本ずつな」と重治に手渡された冷たい缶を、私と桃李はそれぞれの額に当てて、火照った身体を冷やした。

プシュッ、と小気味いい音が森の入り口に響き、渇ききった喉に炭酸が染み渡っていく。

「あー、もう一歩も動けないよー」

「俺、明日のバイト休むわ」

「サボるな。ただでさえ家賃や光熱費でギリギリなんだぞ」

重治が呆れたようにため息をつきながら、手元の緑茶のペットボトルに口をつけた。そのどこまでもブレない保護者のような態度に、桃李は「へーへー、分かりましたよーだ」と口を尖らせながらジュースを喉に流し込んでいる。

桃李は冷たい缶を首筋に当て直し、ようやく落ち着いてきた呼吸を整えた。

「じゃあ、明日は剣術ね。木刀を持って我が家に集合!」

「家でやるつもりか!?間違いなく苦情が来るぞ」

(確かに。二人はマンションだもんね)

家の中で木刀を振り回せば、翌日には管理会社から警告文が届くのが目に見えている。私の脳裏に、激怒するお隣さんの顔が浮かんで思わず苦笑いが出た。

「じゃあ、近くの河川敷にしよ!あそこなら夕方でも少しはスペースがあるし、多少の音なら響かないしー」

桃李がジュースの缶をゴミ箱に放り込みながら、手元の時計に目を落とす。すっかり日は落ち、街灯の光がぽつぽつと灯り始めていた。

私の提案に、重治は少し考えて込んで「河川敷か。視界が開けている分、周囲の安全確認は容易だな」と、もっともらしい理由をつけて同意してくれた。

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