建前の夜
数日が過ぎても、城内に波風は立たなかった。
それが、エリックにとっては何よりの安心材料だった。
問題がある夫婦なら、どこかに歪みが出る。
だが、二人は静かで、整っている。
――だからこそ、彼は深く考えなかった。
この静けさが、すでに固定され始めていることを。
城は眠りに沈み、回廊の灯りも落とされる。
人の気配も音も、夜の花の香りに溶けていく。
それでも――
二人の夜は、まだ終わっていなかった。
「王としての責務」と「王太子妃の役目」。
その言葉を胸の内で反芻しながら、ロランはソフィの寝所の前に立つ。
建前であることは自覚している。
けれど、その建前にすがらなければ、今の自分は一歩も踏み出せない。
静寂の中、扉が閉まる音がやけに大きく響く。
衣擦れのわずかな音さえ、夜に吸い込まれず耳に残った。
幾度か重ねた夜の静けさの中で、二人は互いの距離をそっと確かめ合う。
初めてではないが、心の奥に残るもどかしさや緊張感は、毎回変わらず胸を締めつけた。
「……また、目隠しをなさるのですか?」
ソフィの小さな声。
責めるでも、拒むでもない。ただ事実を確かめるような問いかけ。
ロランは答えなかった。
黒い布を手に取った指が、一瞬だけ止まる。
――これでいいのか。
思い浮かぶ問いを、ロランは振り払うように伏せた。
答えを持つ勇気がない。
だから彼は視線を逸らし、手にした布を、そっとソフィの瞳にかける。
光を奪われたソフィが、静かに息を吐いた。
「……動かないでくれ」
低く告げる声は、命じるというより懇願に近い。
この目隠しは、彼女の拒絶を見ることを恐れる、自分自身を守るためのものだった。
瞳が見えなければ、向けられない視線に傷つかずに済む。
触れている間だけは、彼女を失う不安から目をそらせることができた。
ろうそくの炎が床に映す揺らめきは、夜の静けさとともに少しずつ消えていく。
ロランはそのおぼろげな光を背に、ソフィの寝姿を見下ろした。
ロランの手が彼女の肩に触れ、ためらうように、その輪郭をなぞる。
義務でも代わりでも、今はそれで十分だと思える自分を、ソフィは否定できなかった。
見えないことで、他の感覚だけが際立つ。
衣擦れの音、吐息の温度、指先のわずかな迷い。
目隠しという遮断は、彼女に今、自分が何をされているかを強烈に意識させた。
ロランの指が、ソフィの唇をなぞる。
柔らかな輪郭を確かめるように、けれど決して踏み込まない距離で。
――また、口づけはない。
そのことに気づいた瞬間、ソフィの胸が静かに軋む。
拒まれているわけではない。
けれど、選ばれてもいない。
ロランが、その指に自分の唇を重ねていることを、彼女は知らない。
知らないまま、触れられない口づけを待ち続けている。
いつしか、言葉は途切れ、夜は深く沈んでいった。
互いに致命的な誤解を抱えたまま、触れ合うことでしか確かめられない想いだけが、そこに残る。
「ソフィ……」
かすれた声に名を呼ばれ、彼女は無意識のうちに彼にすがった。
それが許される唯一の時間だと知っているから。
この目隠しを外せば、すべてが壊れてしまう。
だから今はただ、義務という名の仮初めの枠の中で寄り添うことだけが、二人に許された救いだった。
ほどなく、寝所は静寂に包まれた。
夜の闇がすべてを覆う中、二人の息づかいだけが、かすかに余韻として漂う。
床に落ちる蝋燭の光の輪が次第に小さくなる――その揺らぎが、夜の時間の流れをそっと告げていた。
ロランはゆっくりと身を離し、隣に横たわる。
しばらくして、彼は指先で黒い帯を探り、ためらうようにしてそれを解く。
視界が戻ったソフィが最初に目にしたのは、天蓋に刻まれた王家の紋章だった。
現実に引き戻される合図のように。
「……体、辛くないか」
低く抑えた声でそう尋ねながら、ロランは彼女の肩に薄衣をかける。
その仕草は丁寧で、思いやりに満ちている。
それでも彼は、彼女の顔を見ようとはしなかった。
触れていた間だけは、自分だけの人だと錯覚できた。
その感覚が消え切らず、ソフィはシーツをそっと握りしめる。
だが、目隠しを外された今、彼を引き留める言葉は見つからない。
ロランは寝台の端に腰掛け、背を向けて身なりを整え始める。
広い背中は、これ以上の会話を拒んでいるかのように堅い。
ソフィは、思わずその背に手を伸ばしかけ――そして、そっと引いた。
「……明日も、公務が早いのでしょう? 私のことはお気になさらないで下さい」
精一杯の強がりだった。
ロランは一瞬振り返りかけたが、何も言わずに立ち上がる。
「……ああ。ゆっくり休むといい、ソフィ」
それだけを残し、彼は部屋を出ていった。
扉が閉まり、部屋には再び静寂が降りる。
ソフィは、彼が横たわっていた場所に顔を埋めた。
そこには、確かに彼がいた痕跡として、かすかな体温だけが残っている。
見えないまま交わされた、熱を帯びた記憶。
それだけを胸に抱きしめながら、彼女は再び目を閉じた。
次に訪れる「義務の夜」を待つために。
深い闇へと、静かに身を沈めていった。




