夜を超えて
夜明け前。
薄く差し込む蒼白な光の中で、ロランは隣に眠るソフィの横顔を見つめていた。
規則正しい寝息。
わずかに乱れた亜麻色の髪。
そのすべてが、胸の奥を静かに締めつける。
抱きしめたい。
その額に、唇に――触れたい。
だが、もし彼女が目を覚ましたなら。
その瞳が、自分を映さなかったなら。
――それでも触れる資格が、自分にあるのか。
ロランは小さく息を吐き、そっと身を起こした。
寝台が軋まぬよう、衣擦れの音さえ殺しながら、彼は背を向ける。
振り返ることは、できなかった。
静かに扉が閉じられ、部屋には再び眠りの気配だけが残る。
――彼女が目を覚ましたとき、何を思うのか。
その想像から、ロランは逃げるように廊下を歩いた。
♢
朝を告げる鐘の音が、王城に響き渡る。
その音に導かれるように、ソフィはゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、広すぎる寝台と、冷えた隣の空白。
「……ロラン様……?」
呼びかけても、返事はない。
胸の奥に、ひやりとしたものが落ちる。
途切れ途切れに、昨夜の記憶が蘇った。
身体の奥に残る重さが、確かに彼と同じ夜を過ごしたことを告げている。
けれど、その感触に、胸が温まることはなかった。
そこにあったのは愛ではなく、果たされた役目だけだったから――。
視線を合わせてもらえなかったこと。
一度も、口づけがなかったこと。
――やはり、私ではない誰かを……。
ソフィがそう思い込むには、十分すぎる静けさだった。
シーツに残る温もりに指先を触れ、ソフィの喉が詰まる。
同じ夜を過ごしたはずなのに、心はどこも触れ合っていない。
ロランもまた、別の場所で同じ夜を反すうしていることを、彼女は知らない。
互いを想いながら、互いに信じ切れず。
こうして二人は、すれ違ったまま――
やり直されたはずの初夜を、終えたのだった。
だがそれは、終わりではなかった。
ただ、静かな日常へと形を変えただけだ。
♢
朝の光が、高窓から食堂に差し込んでいた。
長い卓には白いクロスが掛けられ、湯気の立つスープと焼き立てのパンが整然と並べられている。
ロランはすでに席についていた。
王太子としての端正な姿勢。昨夜のことなど、何一つなかったかのように。
ほどなくして、扉が静かに開き、ソフィが侍女に伴われて入室する。
彼女は無意識にロランの姿を探し、――すぐに気づいて、視線を伏せる。
ロランもまた、気配で彼女の入室を察したが、立ち上がることはなかった。
椅子にかけた手が一瞬だけ強ばり、そのまま止まる。
「……おはようございます。殿下」
「……ああ。おはよう」
短いあいさつ。
互いに視線を合わせぬまま、静かな朝が始まった。
銀のカトラリーが皿に触れる、かすかな音だけが響く。
給仕が料理を運ぶ間も、二人は必要最低限の所作しか交わさない。
向かい合っているはずなのに、どこか距離があるようだった。
ソフィは背筋を正し、王太子妃としてふさわしい微笑みを唇に乗せていた。
だが、その指先はわずかに震え、ナプキンを握りしめている。
――昨夜のことが、頭から離れない。
隣にいなかった朝。
「……今朝は、早かったのですね」
沈黙を破ったのは、ソフィだった。
努めて平静を装った声。
ロランは一瞬だけ動きを止め、すぐに視線を皿に落とす。
「執務があった」
それだけ。
余計な言葉は、何ひとつ続かなかった。
その短さが、かえってソフィの胸を締めつける。
――やはり、距離を置かれている。
そう結論づけるには、十分すぎる態度だった。
ロランもまた、ソフィを正面から見ることができずにいた。
昨夜、背を向けて眠った彼女。
今、こうして向かい合っているのに、その距離は昨夜よりも遠い。
「……体調は」
不意に、ロランが低く問いかけた。
ソフィははっとして顔を上げ、すぐに頷く。
「はい。問題ありません」
それは、模範的な返答だった。
あまりにも、王太子妃として正しすぎる。
ロランの胸に、かすかな痛みが走る。
――また、壁を作られた。
そう思う一方で、自分こそが、昨夜その壁を決定的にしてしまったのだとも理解している。
沈黙が再び落ちる。
その中で、ふと二人の視線が同時に上がり――合いかけて、逸れた。
ちょうど給仕が間に入り、料理を置く。
朝の光が窓から差し込み、二人の間に長い影を落とす。
ロランは食事を終えると、静かに席を立った。
ただ一礼して背を向ける。
ソフィは微笑を崩さぬまま、深く頭を下げた。
夫を見送る仕草として、完璧だった。
扉が閉じる。
残されたのは、冷めかけたスープと、食べ残されたパン。
侍女たちが控え目に交わす、その戸惑いの視線は、まだ誰にも言葉として届いていなかった。
♢
侍女が深く首を垂れ、静かな声で告げた。
「殿下と王太子妃殿下は、昨夜の御儀をつつがなくお済ませになりました」
朝の光が差し込む執務室で、その言葉だけが澄んだ音を立てて落ちた。
エリックは胸の奥に張り付いていた緊張が、ようやくほどけていくのを感じる。
長い夜の間、固く結ばれていた息が、静かに漏れた。
――まったく、人騒がせな二人だな。
窓辺の光が、彼の口元に浮かんだ小さな笑みを照らした。
ひとまず、懸念していた事態は避けられた――その事実だけで、今は十分だった。
「殿下も、妃殿下もお変わりなく?」
念のために問い返す。
侍女は一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せ、それから小さく頷いた。
「はい。今朝はご一緒に朝食を召し上がっておられました」
言葉は丁寧だが、どこか言いよどむ気配がある。
エリックは眉をわずかに上げ、もう一歩だけ踏み込んだ。
「……お二人のご様子は?」
「……お言葉少なめでいらっしゃいましたが」
落ち着いている、ではなく。
静か、という曖昧な距離のある表現。
エリックは黙り込む。
昨夜の出来事を、直接見たわけではない。
だが、朝になっても残る空気というものがある。
――視線を合わせない。必要以上の会話がない、静かな朝食。
その考えを、エリックは意識の底へ沈めた。
エリックは小さく息を吐き、曖昧な笑みを浮かべる。
「まだご緊張も残っておられるのだろう」
そう口にしながら、自分自身を納得させるように頷く。
夫婦としての一歩。
ぎこちなくとも、時間が解決してくれるはずだ。
彼はまだ気づいていなかった。
「つつがなく」という報告が、あまりにも表層的なものであることに。
同じ卓に着きながら、互いに視線を合わせず、言葉を選び、距離を測り合っていることを。
夜を超えたことで、すれ違いが終わったのではなく――むしろ、形を変えて固定されてしまったことを。
エリックは窓辺に歩み寄り、外を見やった。
朝の光が城の中庭を照らし、穏やかな一日を約束しているように見える。
「……気のせいだといいが」
小さく呟き、執務の準備に取りかかった。
ほどなくしてロランが現れる。
「おはようございます、殿下」
「ああ」
返事は短く、声には抑揚がない。
疲れている様にも見えたが、エリックはそれを初夜の後だからだと受け取った。
軽く肩の力を抜かせるつもりで、からかいを含めて言う。
「妃殿下と、寝所をご一緒にされてもよろしいのでは?」
ロランは一瞬だけ視線を伏せ、淡々と答えた。
「いや、今のままでいい」
それ以上、言葉は続かなかった。
ここで、何かに気づくべきだった。
だがエリックは、その短い返答を深く考えず、やり過ごしてしまう。
王城は今日も静かだ。
だがその静けさの下で、誤解は確かに、根を張り始めていた。




