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すれ違いの、その先で  作者: 鴨治玲


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8/21

夜を超えて

夜明け前。

薄く差し込む蒼白な光の中で、ロランは隣に眠るソフィの横顔を見つめていた。


規則正しい寝息。

わずかに乱れた亜麻色の髪。

そのすべてが、胸の奥を静かに締めつける。


抱きしめたい。

その額に、唇に――触れたい。


だが、もし彼女が目を覚ましたなら。

その瞳が、自分を映さなかったなら。


――それでも触れる資格が、自分にあるのか。


ロランは小さく息を吐き、そっと身を起こした。

寝台が軋まぬよう、衣擦れの音さえ殺しながら、彼は背を向ける。

振り返ることは、できなかった。

静かに扉が閉じられ、部屋には再び眠りの気配だけが残る。


――彼女が目を覚ましたとき、何を思うのか。


その想像から、ロランは逃げるように廊下を歩いた。



朝を告げる鐘の音が、王城に響き渡る。

その音に導かれるように、ソフィはゆっくりと目を開けた。

視界に飛び込んできたのは、広すぎる寝台と、冷えた隣の空白。


「……ロラン様……?」


呼びかけても、返事はない。

胸の奥に、ひやりとしたものが落ちる。

途切れ途切れに、昨夜の記憶が蘇った。

身体の奥に残る重さが、確かに彼と同じ夜を過ごしたことを告げている。

けれど、その感触に、胸が温まることはなかった。

そこにあったのは愛ではなく、果たされた役目だけだったから――。


視線を合わせてもらえなかったこと。

一度も、口づけがなかったこと。


――やはり、私ではない誰かを……。


ソフィがそう思い込むには、十分すぎる静けさだった。


シーツに残る温もりに指先を触れ、ソフィの喉が詰まる。

同じ夜を過ごしたはずなのに、心はどこも触れ合っていない。


ロランもまた、別の場所で同じ夜を反すうしていることを、彼女は知らない。


互いを想いながら、互いに信じ切れず。


こうして二人は、すれ違ったまま――

やり直されたはずの初夜を、終えたのだった。


だがそれは、終わりではなかった。

ただ、静かな日常へと形を変えただけだ。



朝の光が、高窓から食堂に差し込んでいた。

長い卓には白いクロスが掛けられ、湯気の立つスープと焼き立てのパンが整然と並べられている。


ロランはすでに席についていた。

王太子としての端正な姿勢。昨夜のことなど、何一つなかったかのように。


ほどなくして、扉が静かに開き、ソフィが侍女に伴われて入室する。

彼女は無意識にロランの姿を探し、――すぐに気づいて、視線を伏せる。

ロランもまた、気配で彼女の入室を察したが、立ち上がることはなかった。

椅子にかけた手が一瞬だけ強ばり、そのまま止まる。


「……おはようございます。殿下」


「……ああ。おはよう」


短いあいさつ。

互いに視線を合わせぬまま、静かな朝が始まった。


銀のカトラリーが皿に触れる、かすかな音だけが響く。

給仕が料理を運ぶ間も、二人は必要最低限の所作しか交わさない。

向かい合っているはずなのに、どこか距離があるようだった。


ソフィは背筋を正し、王太子妃としてふさわしい微笑みを唇に乗せていた。

だが、その指先はわずかに震え、ナプキンを握りしめている。


――昨夜のことが、頭から離れない。


隣にいなかった朝。


「……今朝は、早かったのですね」


沈黙を破ったのは、ソフィだった。

努めて平静を装った声。


ロランは一瞬だけ動きを止め、すぐに視線を皿に落とす。


「執務があった」


それだけ。

余計な言葉は、何ひとつ続かなかった。

その短さが、かえってソフィの胸を締めつける。


――やはり、距離を置かれている。


そう結論づけるには、十分すぎる態度だった。


ロランもまた、ソフィを正面から見ることができずにいた。

昨夜、背を向けて眠った彼女。

今、こうして向かい合っているのに、その距離は昨夜よりも遠い。


「……体調は」


不意に、ロランが低く問いかけた。

ソフィははっとして顔を上げ、すぐに頷く。


「はい。問題ありません」


それは、模範的な返答だった。

あまりにも、王太子妃として正しすぎる。


ロランの胸に、かすかな痛みが走る。


――また、壁を作られた。


そう思う一方で、自分こそが、昨夜その壁を決定的にしてしまったのだとも理解している。


沈黙が再び落ちる。

その中で、ふと二人の視線が同時に上がり――合いかけて、逸れた。

ちょうど給仕が間に入り、料理を置く。


朝の光が窓から差し込み、二人の間に長い影を落とす。


ロランは食事を終えると、静かに席を立った。

ただ一礼して背を向ける。

ソフィは微笑を崩さぬまま、深く頭を下げた。

夫を見送る仕草として、完璧だった。


扉が閉じる。

残されたのは、冷めかけたスープと、食べ残されたパン。

侍女たちが控え目に交わす、その戸惑いの視線は、まだ誰にも言葉として届いていなかった。



侍女が深く首を垂れ、静かな声で告げた。


「殿下と王太子妃殿下は、昨夜の御儀をつつがなくお済ませになりました」


朝の光が差し込む執務室で、その言葉だけが澄んだ音を立てて落ちた。

エリックは胸の奥に張り付いていた緊張が、ようやくほどけていくのを感じる。

長い夜の間、固く結ばれていた息が、静かに漏れた。


――まったく、人騒がせな二人だな。


窓辺の光が、彼の口元に浮かんだ小さな笑みを照らした。

ひとまず、懸念していた事態は避けられた――その事実だけで、今は十分だった。


「殿下も、妃殿下もお変わりなく?」


念のために問い返す。

侍女は一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せ、それから小さく頷いた。


「はい。今朝はご一緒に朝食を召し上がっておられました」


言葉は丁寧だが、どこか言いよどむ気配がある。

エリックは眉をわずかに上げ、もう一歩だけ踏み込んだ。


「……お二人のご様子は?」


「……お言葉少なめでいらっしゃいましたが」


落ち着いている、ではなく。

静か、という曖昧な距離のある表現。


エリックは黙り込む。

昨夜の出来事を、直接見たわけではない。

だが、朝になっても残る空気というものがある。


――視線を合わせない。必要以上の会話がない、静かな朝食。


その考えを、エリックは意識の底へ沈めた。


エリックは小さく息を吐き、曖昧な笑みを浮かべる。


「まだご緊張も残っておられるのだろう」


そう口にしながら、自分自身を納得させるように頷く。

夫婦としての一歩。

ぎこちなくとも、時間が解決してくれるはずだ。


彼はまだ気づいていなかった。

「つつがなく」という報告が、あまりにも表層的なものであることに。

同じ卓に着きながら、互いに視線を合わせず、言葉を選び、距離を測り合っていることを。


夜を超えたことで、すれ違いが終わったのではなく――むしろ、形を変えて固定されてしまったことを。


エリックは窓辺に歩み寄り、外を見やった。

朝の光が城の中庭を照らし、穏やかな一日を約束しているように見える。


「……気のせいだといいが」


小さく呟き、執務の準備に取りかかった。


ほどなくしてロランが現れる。


「おはようございます、殿下」


「ああ」


返事は短く、声には抑揚がない。

疲れている様にも見えたが、エリックはそれを初夜の後だからだと受け取った。


軽く肩の力を抜かせるつもりで、からかいを含めて言う。


「妃殿下と、寝所をご一緒にされてもよろしいのでは?」


ロランは一瞬だけ視線を伏せ、淡々と答えた。


「いや、今のままでいい」


それ以上、言葉は続かなかった。


ここで、何かに気づくべきだった。

だがエリックは、その短い返答を深く考えず、やり過ごしてしまう。


王城は今日も静かだ。

だがその静けさの下で、誤解は確かに、根を張り始めていた。


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