同じ夜、すれ違う想い
翌日の夜。
王城の回廊は静まり返り、燭台の炎だけが淡く揺らめいていた。
厚い絨毯が音を吸い込み、ソフィの歩みはまるで夢の中のように頼りない。
耳の奥で脈打つ鼓動だけが、彼女がまだ現実にいることを知らせていた。
ロランの寝所の前に立つ。
一度だけ、深く息を吸う。
そして、ためらいを断ち切るように、そっと扉を叩いた。
「……誰だ」
低く抑えた声が返り、胸が跳ねる。
「……ソフィです」
一瞬の間。
扉が開き、ロランが姿を現した。
薄明かりの中で、驚いたように目を見開いている。
「ソフィ? こんな時間に……」
「お話があります」
声はわずかに震えていたが、言葉ははっきりとしていた。
ロランは何かを言いかけ、結局それを飲み込み、無言で身を引く。
室内に足を踏み入れ、扉が閉まる。
その音が、逃げ道を断つ合図のように響いた。
部屋は、薄暗い橙色の光が家具の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
昨夜とは違う。
今夜は、互いに背を向けたままでは終われない空気があった。
ロランはソフィの夜着姿の無防備さに、思わず視線を逸らす。
その仕草が、ソフィの胸に小さな痛みを走らせた。
だが彼女は俯かなかった。
両手を胸の前で握りしめ、逃げずに顔を上げる。
「……私が好きなのは、ロラン様です」
飾り気のない、率直な言葉。
勇気を振り絞った、嘘のない告白だった。
だが――
ロランは、それを受け取ることができなかった。
――建前だ。
そう思った瞬間、胸の奥が軋む。
王太子妃としての立場。
昨夜の出来事。
自分を安心させるために、言わされている言葉。
彼はそう結論づけてしまう。
「……無理をしなくていい」
低く、抑えた声だった。
感情が滲まない様、必死に抑え込んでいる。
「俺は……わかっている」
何を、とは言わなかった。
だがその曖昧さが、ソフィには残酷だった。
ロランは彼女と視線を合わせないまま、ゆっくりと踵を返す。
「待って、ロラン様」
呼び止める声は、ほとんど縋るようだった。
振り返ろうとするその背に、ソフィは焦りに突き動かされるように腕を回す。
背中に伝わる体温。
思いのほか近い距離に、ロランの足が止まった。
ソフィは抱きしめてしまったはいいものの、次の言葉が見つからない。
胸の内は焦りと恐怖でいっぱいなのに、喉が強張り、声にならなかった。
――信じてほしい。白い結婚なんて嫌。でも、どうすれば……。
沈黙に耐え切れず、追い詰められた末にこぼれ落ちた言葉は、彼女自身の意図とはかけ離れていた。
「……王太子妃として、果たすべきことだと思っています」
言い終えた瞬間、ソフィは自分の言葉に息を呑んだ。
それが、彼にどう聞こえるかを考える余裕はなかった。
ただ、取り返しのつかない一言だったと、すぐに理解してしまう。
その背中越しに、ロランの中で何かがはっきりと壊れる音がした。
――やはり、そういうことか。
彼女は“王太子妃としての役目”を果たそうとしている。
心ではなく、立場として。
そう思った瞬間、胸にこみ上げたのは失望だけではなかった。
背中越しに伝わる存在の近さが、彼の理性を揺さぶった。
――こんな衝動を抱いてしまう自分が、どうしようもなく醜い。
だが、拒む理由がどこにも見つからなかった。
ソフィはロランの腕に抱き寄せられ、逃げ場のない距離で、結果として身体を預けてしまった。
その瞬間、胸の奥で何かが崩れる。
「……後悔するなよ」
低く、抑えた声。
突き放すようでいて、どこか迷いを含んだその響きに、彼女は何も答えられなかった。
――後悔は、しない。
けれど……彼もまた“義務”なのだとしたら。
ソフィの胸に、冷たい痛みが走る。
ロランは無言のまま、彼女を連れて寝台の縁へと向かった。
それ以上、向き合う術が見つからなかったからだ。
見つめられたその先で、ソフィは視線の置き場を失い、耐え切れずに目を伏せた。
――また、目を逸らされた。
それ以上、彼女の表情を見る勇気がなかった。
逃げるように、ロランはそっと彼女の視界を覆った。
「ロラン様、私――」
必死に声を振り絞ろうとした、その瞬間。
「何も言うな」
低く、拒むような声が重なった。
言葉を封じられ、ソフィは唇を震わせたまま、沈黙するしかなかった。
闇に放り出された彼女は、耳元で衣擦れの音を聞く。
視界を奪われたことで、些細な気配――息遣い、動作の間、すぐ近くにある体温が、否応なく意識にのぼる。
夜着の紐が解かれる気配に、背筋が小さく震える。
彼女が抵抗しなかったことに、ロランは胸の奥で安堵とも恐怖ともつかないものを覚えた。
見えないからこそ、顔を見ずに済む――その思いが、ソフィを黙らせる。
同時にロランの本心が見えないという絶望を抱えながら。
触れられたのは、ほんの一瞬だった。
けれど、その一瞬が、彼女の呼吸を乱すには十分だった。
――ずっと、触れたかった。
その想いが、言葉にならないまま、彼の中に沈んでいく。
口づけはなかった。
代わりに、そっと手を包み込むような温度だけが伝えられる。
視界を失った分、感覚は鋭くなる。
指先の震え、近づく距離、抑えられた息。
それらすべてが、彼女の心をかき乱した。
覆われた闇の中、彼の存在だけが確かだった。
触れられるたび、身体が強張り、同時に熱を帯びていく。
やがて、重なる体温がひとつになり、時間の感覚が曖昧になる。
彼女はただ、彼の腕の中で、必死に呼吸を合わせていた。
――これは、役目なのか。
それとも……。
答えに辿り着く前に、意識は深い熱に呑み込まれていく。
燭台の炎は、ほとんど芯だけになっていた。
夜は静かに更けていく。
ロランは静かに身体を離し、言葉を探すように唇を噛んだ。
出てきたのは、ひどく小さな一言だけだった。
「……すまない」
それが何に対する謝罪なのか、ソフィにはわからなかった。
抱かれたことか。
信じてもらえなかったことか。
それとも――愛されたと錯覚してしまった、自分自身に対してか。
目隠しが外されたとき、ロランはもう彼女を見ていなかった。
一度も、口づけはなかった。
その事実だけが、はっきりと残る。
口づけをしなかったのは、ロランの選択だ。
互いに背を向けたまま、同じ夜を越えながら、二人は同時に確信していた。
――相手の心は自分には向いていない。
すれ違いは、まだ終わらない。




