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すれ違いの、その先で  作者: 鴨治玲


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6/7

閉ざされた扉

「エリック、今晩ソフィの部屋にきてくれ」


不意にかけられた声に、エリックは足を止めた。

振り返ると、ロランは回廊の窓辺に立ち、外を見たままこちらを見ようとしない。


「――今晩ですか?」


問い返すと、わずかな間が開いた。


「ああ。――必要なことだ」


抑えた声だったが、どこか冷えていて、感情の起伏が削ぎ落とされている。

命令ではない。だが、拒む余地も感じられなかった。


「……わかりました」


胸に引っ掛かるものを抱えたまま、エリックは深く頭を下げる。

その背を見送りながら、理由の分からないざわめきが、胸の奥で静かに波打っていた。


夜。

王城の廊下は人の気配を失い、足音さえも吸い込むように静まり返っている。

壁の燭台が揺らす灯りの中、エリックはソフィの部屋の前に立ち、ひと呼吸置いてから扉を叩いた。


「ソフィ様、エリックです」


「……どうぞ」


返ってきた声はいつもより小さく、どこか掠れている。

嫌な予感が、背筋をなぞった。


扉を開けると、室内には重たい沈黙が満ちていた。

ロランとソフィが、卓を挟んで向かい合って座っている。

ソフィは膝の上で手を握りしめ、肩をすくめるように俯いていた。

ロランは背筋を正していたが、表情は石のように硬く、視線はソフィを避けている。


エリックが一歩、室内に足を踏み入れた瞬間だった。


「……今夜は、二人の思うままにしろ」


冷たく、淡々とした声。

そこには命令でも冗談でもなく、結論だけが置かれていた。


「……殿下?」


意味が飲み込めず、エリックは思わず一歩前に出る。


「待ってください、殿下。何を――」


だが、ロランはそれ以上を聞く気がないように、踵を返した。


「……っ、ひっ……」


背後から、堪えきれず零れ落ちたソフィの嗚咽が、夜気に滲む。

その音に、エリックの足が凍りつく。

扉にかけられたロランの指先が、わずかに震えた。

一瞬だけ、何かを言いかけるように唇が動く。


――それでも。


扉は、重く、静かな音を立てて閉まった。


「……ソフィ様、どういうことですか」


エリックが振り返ると、ソフィは両手で顔を覆い、肩を震わせていた。

押し殺そうとしても抑えきれない嗚咽が、指の隙間から零れている。


「……エリック……ロラン様は……私と……」


言葉は途中で途切れ、ひっ、と喉が鳴った。


「……白い結婚で、いいと……」


その言葉を聞いた瞬間、エリックの眉がわずかに寄った。

否定も肯定もせず、短い沈黙が落ちる。


――そうか。


「……殿下は、そう思い込んでおられるのだと思います」


「……思い、込んで……?」


ソフィが顔を上げる。

涙で濡れた瞳が、縋るよう揺れた。


「ロラン様に……好きな方が、いるのでは……?」


その問いに、エリックは即答しなかった。

しばらく視線を落とし、言葉を選ぶ。


「……少なくとも、殿下は“自分が選ばれていない”と感じておられます」


ソフィの喉が、小さく鳴った。


「……私が……ロラン様を……?」


「ええ」


淡々とした声だった。


「視線を合わせようとすると逸らされる。距離を詰めれば、一歩引かれる。それが、どれだけ続いていたか……ソフィ様は覚えていますか?」


ソフィは答えられない。

指先が、膝の上で強く絡み合う。


「恥ずかしくて顔が見られない――その理由を、殿下は知りません」


「……」


「知らないまま、ただ避けられていると感じるだけです」


その言葉に、ソフィの呼吸が浅くなる。


「それでも殿下は、問いませんでした。あなたに理由を尋ねることも、責めることもなさらなかった」


エリックは一歩だけ近づいた。


「代わりに、自分が退くべきだと結論づけたのです」


「……っ」


ソフィの唇が震える。


「私は……ただ……」


「分かっています」


エリックは遮るように言った。


「ですが結果として、殿下は自分に触れられるのは嫌なのだと受け取った。それが、今夜の言葉につながっています」


部屋の空気が、重く沈んだ。


「……私……そんなつもり……」


「つもりがなかった、では済みません」


冷たい言葉だったが、視線はそらさなかった。


「ソフィ様。殿下は、あなたが自分を必要としていない可能性を、受け入れようとしています」


「……っ、そんな」


「それが、どれほど危うい覚悟か――分かりますか?」


ソフィの肩が、かすかに震えた。


「……私が……ロラン様を……追い詰めた……?」


エリックは否定しなかった。

だが同時に、自身にも非があったことに思い当たる。


「……ソフィ様だけのせいでは、ありません」


胸の奥に、苦い後悔が広がる。


「……ガゼボでお話ししたとき……殿下がご覧になっていたのかもしれません。あれが、誤解を招いた可能性もあります」


――だから、自分がここに呼ばれた。


ソフィがはっと顔を上げる。

エリックは、わずかに視線を伏せたまま続けた。


「明日、殿下とお話しください。誤解を解く、では足りません。選んでいると、言葉にしてください」


「……言葉に……」


「でなければ、殿下は自分から身を引きます。それが、殿下なりの責任の取り方だと思われていますから」


ソフィは唇を噛みしめ、やがて小さく頷いた。


「……わかりました」


エリックは深く一礼する。


「では、失礼いたします」


扉を閉めたあと、エリックは足早に廊下を進んだ。

胸の奥に、拭えない不安を抱えたまま。


――殿下は、もう一人で決断してしまう。


そう思った瞬間、歩調が自然と速くなった。


ロランの寝室を覗く。

扉の隙間から見えるのは、落とされた灯りと、誰の気配もない静けさだった。


嫌な胸騒ぎを抱えたまま、エリックは足を引き返す。

向かった先は、城の奥――普段は夜に使われることのない執務室。


灯りは点いていなかった。

窓から差し込む月光が、机の輪郭を淡く浮かび上がらせている。


その机に、ロランは突っ伏していた。


身じろぎもせず、ただそこにいる。

今夜、あの部屋で何が起きるのか――

考えたくなくて、考え続けて、時間が過ぎるのを待っていたのだろう。


そのとき、背後で扉が軋んだ。


ロランが、はっとしたように顔を上げる。


思いのほか早く現れたエリックの姿に、驚きがそのまま残る。


「……こんなところで寝ては、風邪をひかれますよ」


咎めるでもなく、慰めるでもない声音だった。

ロランは視線をそらし、低く呟く。


「……もう、終わったのか」


自分で言いだしたことだ。

そう分かっていても、その言葉には、隠しきれない棘が混じっていた。


エリックは一歩だけ近づく。


「ええ。少しお話ししただけで、すぐに失礼しました。今はお休みになっているかと」


それだけを告げて、少し間を置いた。

そして、必要最低限の言葉を、選ぶように続ける。


「……私と王太子妃殿下の間には、何もありません」


ロランは何も答えない。


「殿下が思っておられるようなことは、一切ない」


はっきりと言い切ったあと、エリックはロランの表情をうかがう。

だが、ロランは視線を落としたままだった。


否定もしない。

問い返しもしない。


まるで、その言葉を聞かなかったかのように。


沈黙が落ちる。

重く、冷たい沈黙。


やがて、エリックが小さく息を吐いた。


「……お休みになられるなら、お部屋へ戻られた方がよろしいかと」


それ以上、踏み込むことはしなかった。


ロランはゆっくりと身を起こす。

立ち上がり、エリックを見る。

そこにあったのは、怒りでも、疑念でもなかった。

ただ――決断を下してしまった者の、揺るがない沈黙。


何も語らぬまま、ロランは執務室を出ていった。

重い扉が閉まる音が、静まった廊下に響く。


その音を聞きながら、エリックは唇を噛んだ。


――殿下は、もう信じない選択をしている。


誤解ではない。

思い込みでもない。


それでも、取り消せないほど固めてしまった結論。


月光だけが残る執務室で、エリックは一人、立ち尽くしていた。



ロランは寝台に腰を下ろしたまま、しばらく動けずにいた。


――本当に、何もなかったのか?


その問いが浮かんだ瞬間、ロランは自分を嫌悪した。


疑う理由などない。

エリックは否定した。

事実として、何も起きていない。


それでも、胸の奥に広がる焦燥が消えない。

期待していたのだ、と気づいてしまった。

何かが起きていてほしい、と。

そうでなければ説明のつかない感情が、自分の内側にある。


ロランは手のひらで顔を覆い、深く息を吐く。


考えたくなかった。

考えれば、醜い感情に名前がついてしまう。


何もなかった。

それは、疑いようのない事実だ。


――それなのに。


腹の奥が、どうしようもなくざわつく。


もし、何かがあったなら。

裏切りが形になっていたなら。

怒りを向けることも、断ち切る理由も得られただろう。


だが、何もなかった。

二人は清白で正しくて――だからこそ、自分だけが歪んでいる。


ロランは立ち上がり、窓辺へ向かった。

月明りが、静かに床を照らしている。


結婚式は終わった。

ソフィは王太子妃となった。

それで、すべてが正しい位置に収まるはずだった。


――なのに。


自分の前では逸らされる視線。

距離を保つ仕草。

それらが、どうしても脳裏から離れない。


――……俺が、重いのか?


浮かんだ考えに、ロランは小さく苦笑した。


王太子という立場。

未来の王としての責任。

それらすべてを含めた自分の想いは、彼女にとって負担なのかもしれない。


だから、彼女は――

他の誰かの前では、自然でいられる。


その結論は、胸をさらに締め付けた。


信じたい。

疑いたくない。


だが同時に、失うかもしれないという恐怖が、確かにそこにある。


何もなかった。

それが、すべてを拗らせていた。


その夜、ロランは眠ることができなかった。


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