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すれ違いの、その先で  作者: 鴨治玲


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届かない笑顔

ソフィは、自分が世界一幸せな公爵令嬢だと信じて疑わなかった。


幼い頃から想い続けてきたロラン様と――その人と結婚できる。

その事実だけで胸がいっぱいになり、夜ごと枕に顔を埋めては、声にならない歓声を上げてしまうほどだ。


けれど。


いざ当の本人を前にすると、どうしても、うまく振る舞えない。


婚約者として、王太子妃教育を受けるため、ソフィは王宮での生活を始めていた。

朝の回廊。

大理石の床に差し込む光が揺れ、白い壁に反射して淡くきらめく。

その光の中を、ロランがゆっくりとこちらへ歩いてくる。

その姿を見つけた瞬間、ソフィの心臓は跳ね上がった。


「……おはようございます、殿下」


視線を落としたままの挨拶。

ほんの少しだけ距離を取った立ち位置。


――幼い頃は、あんなに自然に隣を歩けたのに。


ロランが何か言おうとする前に、ソフィはそっと身を引いてしまう。


――だめ。……だめだわ。顔を上げたら、きっと変な顔になる。


王太子妃としてふさわしくあろうとするほど、感情をそのまま表に出すことが、怖くなっていた。


好きすぎる。

好きすぎて、直視できない。


本当は近づきたいのに。

本当は隣を歩きたい。


ソフィは胸の前でそっと手を握りしめ、逃げるように小さく頭を下げた。


「……し、失礼いたします」


「ソフィ――」


呼び止める声が、背中に届く。

わずかに戸惑いを含んだその声に、胸が痛んだが、振り返る勇気は持てなかった。


――どうして、こんなに好きなのに。……うまく笑えないの。


甘く息苦しい思いを抱えたまま、ソフィはその場を離れた。



一方で、ロランの胸中は、まったく別の熱を帯びていた。


ソフィ以外の女性など、考えたこともない。

いや、考えられなかった。


彼女を見れば、自然と鼓動が高鳴る。

声を聞けば、触れたいという衝動が湧き上がる。

それは幼い頃から変わらない、彼だけの本能のようなものだった。


だが、ロランが惹かれる理由はそれだけではない。


子どもの頃から変わらない、周囲への穏やかな気遣い。

政務の場で見せる、的確な判断。

未来の王妃として申し分ない才覚を、ロランは誰よりも近くで見てきた。


――それでも。


ふとした瞬間、彼の心に影が差す。


自分に向けられるソフィの態度は、どこか壁がある。

視線を逸らされ、言葉を選ばれ、距離を保たれる。

朝の挨拶ひとつでさえ、彼女は一歩引く。


そのたびに胸の奥を、冷たい影が撫でていく。


――俺で、いいのだろうか。


彼女が心を許している相手――、

軽口を交わし、自然に笑い合う相手が、エリックであることをロランは否応なく意識してしまっていた。


廊下の向こうで、ソフィがエリックに向けて柔らかく笑う姿を見たことがある。

その笑顔は、肩の力が抜け、昔のままの距離感で――

ロランの前では決して見せない表情だった。


――あの笑顔は、俺には向けられないのか。


胸の奥が、きゅっと痛む。

嫉妬とも不安とも付かない感情が、静かに、しかし確実にロランの心を締め付けていく。


ソフィの隣に立つのが、本当に自分でいいのか。

彼女の未来を縛ってしまうのではないか。


そんな答えの出ない問いを抱えたまま、ロランは遠ざかっていくソフィの背中を、ただ黙って見つめ続けていた。



数日後、ソフィは意を決し、エリックを呼び止めた。


「エリック、少し……ご相談が」


「嫌な予感しかしませんが」


エリックは眉をひそめながらも足を止めた。

ソフィは中庭のガゼボへ彼を誘い、周囲に人影がないことを確かめると、両頬を押さえて小さく身を縮めた。


「その……殿下が、あまりにも……」


「?」


「素敵すぎて……目が、合わせられませんの……」


最後の語尾は溶けるように甘く、表情は完全に緩みきっていた。

恋する乙女そのものの顔。


エリックは一瞬、言葉を失い、次いで冷ややかな視線を向ける。


「……馬鹿ですか」


「ひどいわ! 真剣ですのよ!」


「真剣に言う内容じゃありません」


ため息交じりに続きを促す。


「他にも?」


「……ありますの」


ソフィは指先をもじもじと絡め、視線を落とした。


「六年間、殿方と接することを許されなかったでしょう? 恋愛経験もなくて……。それに、ロラン様は私の理想そのものなんです」


「理想?」


「ええ。子どもの頃の憧れで……。優しくて、強くて、完璧で……。完璧な王子様像として積み上げてしまって……。そんな方を前にしたら、どう振る舞えばいいのか分からなくなるんです。変な顔をしたら嫌われるんじゃないかって……怖くて」


エリックは額に手を当てた。


「つまり、恋愛経験ゼロのまま理想を積み上げた結果、殿下を前にするとフリーズする、と」


「そ、そういう言い方はやめて……!」


「事実でしょう」


エリックは肩をすくめ、ソフィの顔を覗き込む。


「でも、公務の場では普通に殿下と目を合わせてますよね。俺、何度も見てますけど」


ソフィは首を横に振った。


「……あれは、合わせているフリなの。眉間とか……鼻先とか……。本当に目を見たら、心臓が止まってしまいます」


「そんな高度な技を使ってたんですか」


「必死なんですの!」


エリックは呆れたように息を吐き、ソフィの顔をじっと見つめた。


「ソフィ様、俺の顔を見てください」


至近距離で見つめられても、ソフィはきょとんとするだけだった。


「……やっぱり殿下限定ですね。こう見えても、俺はそこそこ令嬢たちから受けがいいんですよ」


「はぁ……。でも、私にはロラン様以外は芋にしか見えませんわ」


「芋って……」


少なからず、ショックを受けるエリック。


「……じゃあ、殿下に芋のお面でもかぶせておきます?」


その光景を想像して、ソフィとエリックは思わず笑いあった。

気づけば、二人の距離はずいぶんと近くなっていた。

緊張がほどけ、ガゼボに柔らかな空気が満ちていく。


その光景を――

ロランは回廊の陰から見てしまった。


ソフィがエリックに向けて見せる、柔らかく無防備な笑顔。

肩の力が抜け、自然に笑い合う距離感。


――また、だ。


最近、何度も見てきた光景。

ソフィが自分の前では決して見せない表情を、エリックには当たり前のように向けている。


胸の奥が、じわりと冷える。


なぜ、自分の前では視線をそらすのか。

なぜ、挨拶ひとつにも距離を置くのか。

なぜ、あの笑顔は、こちらには向けられないのか。


答えはわからない。

それでも、それらを一つにつなげてしまえば――

そう考えた方が、楽だった。


――……そう、なのだろうか。


胸の内に浮かんだ思考に、確信はなかった。

ただ、そう思い込もうとしている自分がいる事だけは、はっきりとわかる。


ソフィはエリックといる時だけ自然で。

自分の前では、どこか身構えている。


それが何を意味するのか、断定できるはずもない。

それでも、胸の奥では、都合の悪い想像だけが形を取り始めていた。


これ以上見ていられず、ロランは視線をそらした。


見続ければ、もっと考えてしまう。

考えれば、胸の奥に広がる冷たい痛みを、無視できなくなる。


第一王子として、そして一人の男として。


――そうあるべきだと、自分に言い聞かせながら、ロランはゆっくりと背を向けた。


エリックは信頼する側近で、大切な友人だ。

ソフィは、かけがえのない存在だ。


――どちらも、失いたくない。


だからこそ、この場から離れることが、正しい選択なのだと――そう思い込む必要があった。


回廊に戻る足取りは、ひどく重かった。


誰にも打ち明けられないまま。

誰にも確かめることができないまま。


結婚式当日が、静かに、確実に、近づいてきていた。


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