春の光(最終話)
王城はすっかり日常の顔を取り戻していた。
磨き上げられた回廊を、淡い光が滑っていく。
執務室前の廊下では、書類を抱えた官吏たちが足早に行き交っていた。
執務室の扉が開いた瞬間――
エリックは、わずかに目を見開いた。
いつもは額にかかっているロランの前髪が、きれいに後ろへ流されている。
整えられた髪が光を受け、いつもより凛として見えた。
「……珍しいですね」
思わず零れた言葉に、ロランは肩をすくめる。
「ああ。ちょっとね」
その口元に浮かんだのは、どこか含みのある笑みだった。
そこへ、控え目なノックが室内に響いた。
エリックが扉を開けると、そこに立っていたのはソフィだった。
水色のドレスに身を包み、書類束を胸に抱えている。
いつものようにまっすぐ伸ばされた背筋に、王太子妃としての気品が自然と滲んでいた。
「殿下はいらっしゃいます?」
「ええ」
ロランの姿が見えるよう、エリックが一歩身を引いた。
ソフィは、ロランの姿を視界にとらえた途端――
頬が一気に赤く染まり、慌てたように書類束で顔を隠した。
「……っ」
耳まで真っ赤なまま、視線を床に落としてロランの前に立つ。
「報告書を……お持ちしました」
「ありがとう」
ロランは受け取り――わざとらしく間を置いた。
「それだけ?」
観念したように、ソフィが小さく顔を上げる。
「……とても、お似合いです」
両手で隠された口元から出た声は小さいが、その眼差しに嘘はない。
ロランは満足そうに微笑んだ。
「そうか」
ソフィは数秒遅れて、はっと我に返る。
「し、失礼いたします!」
ほとんど逃げるように出ていく背中。
扉が閉まったあと、ロランは小さく笑った。
「可愛いなぁ」
呟かれた一言に、エリックは呆れ半分に相槌を打つ。
「そうですか」
「ところで」
ロランは、さも思いついたように続ける。
「執務室の中に、ソフィの机を置くのはどうだろう」
エリックは一瞬、言葉を失う。
「お二人の政務に支障が出ます」
「だめか?」
本気とも冗談ともつかない顔。
ロランは腕を組み、しばし考え込むそぶりを見せ――
「いっそ、膝の上に乗せて――」
「却下です」
即答に、ロランは不満げに唇を尖らせる。
エリックは小さく息を吐いた。
――すれ違っていた頃の方が、静かではあったな
だが同時に、思う。
迷いも猜疑もない、こんな顔を殿下が見せる日がくるとは。
「殿下」
「なんだ」
「執務をお忘れなく」
ロランは一瞬だけ気まずそうに笑い、椅子に腰を下ろした。
「はいはい」
書類に目を落とすその横顔は、先ほどまでの甘さを残しつつも、確かに王太子のそれだった。
窓の外では、朝の光が庭園を照らしている。
今日も、城は穏やかだ。
♢
数日後の朝――
ソフィの私室に運び込まれたのは、一着の白いドレスだった。
レースが幾重にも重なり、胸元から裾へと流れる金糸の刺繍が、朝の光を受けて柔らかく輝いている。派手ではない。気品と清らかさを兼ね備えた一着。
昨夜、寝台の中でロランは囁いた。
――明日、来てほしい場所がある。
何をするのかは、秘密のままで。
そのドレスが、誰の意向かは明らかだった。
胸の奥が、高鳴っていく。
整えられた髪には、あの青い石の髪飾り。
鏡越しにそれを見つめ、ソフィは小さく笑みを浮かべる。
侍女に導かれ向かった先は、王城内の一角にある大聖堂――
かつて、ロランとソフィが結婚式を挙げた場所。
王城大聖堂の重厚な扉の前には、エリックが静かに立っていた。
「中で殿下がお待ちです」
その声音は、どこか柔らかい。
扉がゆっくりと開かれる。
中は、驚くほど静かだった。
楽団の音も、列席者のざわめきもない。
高い天窓から差し込む春の陽射しが、祭壇を淡く照らしている。
その光の中に、ロランが立っていた。
まるで、あの日の再現。
だが今は、誰の視線もない。
二人だけの誓いの場所。
背後で扉が静かに閉じる。
足音が板床に響く。
一歩、また一歩と近づくたび、鼓動が早まる。
ロランが手を伸ばす。
ソフィは躊躇いなく、その手に自分の指を重ねると、二人は同時に微笑んだ。
「……ロラン様、これは一体?」
問いかけると、ロランは少しだけ眉を下げる。
「もう一度、きちんと誓いたいと思って」
まっすぐな瞳。
「結婚式の誓いは嘘じゃない。でも……あの時は余計な考えに囚われていた。今度は君の目を見て、俺の言葉で誓わせてほしい」
ソフィの胸が、きゅっと締め付けられる。
「ロラン様……」
ロランは小さく咳払いをして、姿勢を正した。
「ソフィ。何があっても一生涯、君を守る。二度と、君の手を離さないから……ずっと隣にいて欲しい」
ソフィは頷く。
「はい。私も……ロラン様の手を、離しません。ずっとおそばにいます」
あの日、交わしきれなかった想いが、今、静かに満ちていく。
自然に、二人の唇が重なる。
ロランは胸ポケットから、丁寧にたたまれたハンカチを取り出した。
白地に緑色の糸で刺された王家の紋章。
「……そのハンカチ」
十二歳の別れの日、ソフィが贈ったものだった。
「まだ、持っていてくれたのですね」
「当たり前だろう。君が髪飾りを大事にしてくれていたのと同じだ」
ロランはソフィの髪につけられた髪飾りに、そっと触れる。
ハンカチには、二つの指輪が包まれていた。
銀色の指輪の中心に青と緑の石が静かに輝く。
「これを君に」
青い石の指輪を、ソフィの左手の薬指へ。
「……よかった。ぴったりだ」
ロランは安堵の息をついた。
今度は、緑色の石の指輪を差し出す。
「はめてくれる?」
差し出されたロランの左手を取り、ゆっくりと薬指へと通す。
ぴたりと収まる。
ロランはその指輪を愛おしそうに見つめた。
「ソフィの瞳の色。いつでも君を感じていたくて」
「こちらは……ロラン様の瞳の色ですね」
ロランはソフィの額に自分の額を預けて、困ったように笑う。
「本当は、執務室にもずっと君を置いておきたいんだけどな。……エリックに却下された」
ソフィはくすりと笑う。
「そんなことになったら、仕事ができませんわ」
「俺は捗るんだけど」
「……では、お仕事の時間以外は、一緒にいてください」
ロランの表情が、柔らかく崩れた。
「もちろんだ。愛してる、ソフィ」
「愛しております、ロラン様」
ソフィの額に、優しく口づけをする。
そのとき、まるで祝福の合図のように、外から小鳥のさえずりが響いた。
今度こそ。
迷いなく、同じ歩幅で。
春の光が、二人の新しい誓いを、静かに照らしていた。
その春が、やがてもうひとつの光を宿すことを、ふたりはまだ知らない。




