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すれ違いの、その先で  作者: 鴨治玲


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20/21

受ける者

朝、エリックは王太子妃の私室へと向かった。


回廊の窓から差し込む光が、白く石壁を照らしている。

静かな空間に、自分の呼吸だけが鮮明に響く。


扉の前で立ち止まり、一瞬だけ目を閉じる。

握った拳の力が、思った以上に強いことに気づき、ゆるめた。


深く息を吸う。


「――エリックです」


入室の許可を得て足を踏み入れると、やわらかな春の光が室内を満たしていた。


窓辺に立つソフィは、薄絹のカーテン越しの陽射しをまとい、淡い金色に縁取られている。

その姿は穏やかで、これまであった影がどこにも見えない。


「エリック」


呼ぶ声は、驚くほど静かで温かい。

その落ち着きが、かえって胸に刺さる。

エリックは数歩進み、深く頭を下げた。


「妃殿下。昨夜の件につきまして――」


「私からの処罰はありません。ロラン様のご判断に従って」


きっぱりと告げられ、思わず頭をあげる。


「……この件を公にして、喜ぶのは王家の外の者だけでしょう?」


ソフィは皮肉な笑みを浮かべる。

彼女にしては珍しい表情だった。


「しかし――私は、越えてはならぬ無礼を」


「無礼?」


ソフィはわずかに眉を下げ、静かに首を振った。


「あなたがいなければ、私たちはあのまま意地を張り続けていたわ」


視線が窓の外へ流れる。庭では若葉が揺れている。


「処罰より……褒美をあげたいくらいよ」


冗談めかして笑う。


その笑みは、王太子妃として整えられたものではない。

幼いころから共に過ごした“ソフィ”の顔だった。


エリックは目を伏せる。


あの瞬間、彼女を押し倒した感触が手に焼きついている。

何度洗っても消えない気がした。

それを赦せるほど、器用ではない。


その頑なさを見て、ソフィは小さく息をついた。


「……それなら、お願いがあるわ」


声色が変わる。


王太子妃としてではなく、ひとりの妻として。


「これからも、ずっとロラン様を守って」


「……っ」


エリックは深く頭を下げた。


「……承知いたしました。……ただ、殿下のお許しをいただいてから」


ソフィは静かに頷いた。


「ええ。……行ってきなさい」


扉を出ると、エリックは大きく息をついた。

そのまま、ロランの執務室へ向かう。


回廊を渡るあいだ、胸の奥は重いままだった。

ソフィから赦しを与えられても、自らの罪は消えない。


朝の執務室。

差し込む淡い陽光が書類の山を照らし、いつもと変わらぬ静けさが広がっている。


まるで昨夜など存在しなかったかのように、二人の朝は始まった。


執務机を挟み、向かい合う主従。


「――以上が、本日の予定です」


「わかった」


淡々とした報告。淡々とした返答。

だが、その均衡を崩すようにロランが視線を上げた。


「エリック、頼みがある」


一瞬、空気が張りつめる。


「……その件であれば、別の者に。もう、私は……」


エリックの声は低く、すでに覚悟を終えた者のそれだった。

処罰を待つ罪人のように、感情を押し殺している。


そんな臣下を、ロランはまっすぐに見据えた。


「エリック。昨夜、お前は務めを果たしただけだ」


「しかし――」


「俺からの処分はない」


きっぱりと告げられた一言。


エリックの瞳が大きく揺れる。


「……そうはいきません。あれは越えてはならぬ一線でした。もっと、他にやり方があったはずです。私は……」


自責の念が滲む声。

ロランは小さく息を吐いた。


「あれくらいじゃなかったら、俺は動けなかった」


静かに、しかしはっきりと。


「俺は、あのまま意地を張っていた。ソフィも、きっと」


昨夜の光景が脳裏をよぎる。

エリックの挑発。ソフィの涙。そして、自分の醜い独占欲。


「……お前が、俺の背中を蹴ったんだ」


ふっと笑う。


「眠れなかったんだろ?」


エリックの目の下に浮かぶ薄い隈を指さす。


いつもなら軽口で返すはずの彼は、何も言わない。

納得できない顔に、ロランは苦笑する。


「……ソフィには?」


「先ほど、お会いしてきました。……処分はないと」


ロランはほっとしたように微笑み、そして言葉を選んだ。


「それなら命じる」


エリックがわずかに顔を上げる。


「これからも、俺の盾でいろ」


真剣な眼差し。


「そして――ソフィの盾にもなれ」


「……殿下」


「それが、俺からの処罰だ。――勝手に離れることは許さない」


静かな声だったが、それは命令だった。


「逃げるな。最後まで、俺の隣にいろ」


処罰と呼びながら、その実、最も重い信頼を差し出している。


王太子妃を守るということは、王家の未来を守ること。

その責を、改めて預けるという宣言だった。


やがてエリックはゆっくりと跪き、深く頭を垂れた。


「……承知いたしました。殿下の盾として。そして王太子妃殿下の盾として、この身を尽くします」


ロランは静かに頷く。


「頼んだぞ、エリック」


その声音には、信頼があった。

赦しよりも重い、預けられた未来の重み。


エリックは深く頭を垂れたまま、胸の奥でひとつ決意を固める。


離れる覚悟で踏み越えた一線。

だが今、与えられたのは追放ではなく――


共に歩む責務だった。



侯爵家の離れの応接室。


厚い絨毯が足音を吸い込み、重たい緞帳(どんちょう)が外光を遮っている。

昼だというのに、室内はどこか薄暗い。


ロランは一人、部屋の中央に立っていた。


ブランカを側室に迎えるという縁談を、白紙に戻す。

そのロランの独断が記された公式の書面は、数日前にすでに届けてある。


それでも――直接、言わなければならなかった。


向かいに座るブランカは、背筋を伸ばし、侯爵令嬢としての端正な顔を崩さずにいる。


「……君には、本当に申し訳ないことをした」


ロランは深く頭を下げた。


沈黙。


ブランカは、下げられたその頭をじっと見つめる。


――最初から、わかっていた。


自分に向けられることのない視線。

無意識に追ってしまう先に、いつも別の少女がいたことも。


幼い日、条件とともに軽く笑って渡された金の輪。


指輪だったから。

まだ、自分にも可能性があると思ってしまった。


視界が滲むのを堪える。


「……お話は、それだけですか」


声音は、驚くほど静かだった。


「ああ。……それと、指輪のことだが」


言い淀むロランを遮るように、


「お返しします」


ブランカは立ち上がり、卓上に指輪を置いた。


金色の指輪。

中心の紅石英が、わずかな光を受けてきらりと反射した。


――あの頃は、こんな艶はなかった。


幾度も磨かれ、大切に扱われてきた証に、胸の奥を鈍く刺される。

ロランはゆっくりとそれを手に取り、わずかに目を伏せた。


「……軽率だった」


幼い日の言葉が、誰かの未来を縛るなど思いもしなかった。

その無責任さが、ソフィを傷つけ、そして今、目の前の令嬢の尊厳を踏みにじった。


「ブランカ。……許しは請わない。ただ、怒りは俺にぶつけろ」


自嘲の混じった声は、自分の無力さを噛みしめるように吐き出された。


ブランカは何も言わず、彼の前まで歩み寄る。

立ち止まり、深く息を吸ったのを、ロランは見逃さなかった。


彼はまっすぐに顔を上げる。

逃げないと決めた目。


次の瞬間――


パンッと乾いた音が室内に響いた。


空気が凍りつく。

頬に走る、鋭い痛み。

ロランは動かず、顔を上げたまま耐える。


「……ひどい人」


震える声で、ブランカは言った。


「最初から、選ばないなら……指輪なんて渡さないでください」


ロランを叩いた手が、力なく下がり、やがて強く握られた。

涙は落ちていない。

侯爵令嬢としての矜持が、その表情からひしひしと伝わる。


「……お帰りください、殿下」


ロランはもう一度、深く頭を下げる。


「……すまなかった」


それ以上の言葉は、許されない。


重い扉が閉まる。


外で控えていたエリックが、赤く染まった頬をひと目だけ見た。

無言で後ろに続く。

主が受け取るべき痛みを、主が受け取った。それだけのことだった。


帰りの馬車。


車輪が石畳を軋ませる音だけが響く。


ロランは胸ポケットから指輪を取り出した。


掌の上で、紅石英が静かに光る。


「……これを、どうするべきだろうな」


独り言のような声。


「本来、王家の宝物庫へ納められるべき品です。宝物庫へお戻しします」


エリックは淡々と答える。

差し出された掌へ、指輪を落とす。


「すまない」


「謝る相手は、私ではありません」


声に感情はなかった。


「……ああ」


馬車が石に乗り上げ、小さく揺れる。


ロランは窓の外へ視線を向けた。


侯爵家の屋敷が遠ざかっていく。

ロランはふと、まだ頬が熱いことに気づいた。


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