幼き日々の予兆
ある日の午後、城の音楽室には軽やかなピアノの旋律が弾んでいた。
高い天井に音が跳ね返り、幾重にも重なって、まるで春の鳥たちが飛びまわっているようだ。
椅子に並んで座るロランとソフィは、鍵盤を見つめながらも、時折そっと顔を見合わせる。
目が合うたび、どちらからともなく、くすりと笑う。
「ロラン様、そこ、少し速いです」
ソフィが控え目に声をかけると、ロランは一瞬だけ指を止める。
「えっ、そう? でも、ソフィの方が先に行ってる気がするけど」
「もう。じゃあ、せーので合わせましょう。……せーの」
合図と同時に、二人の指が再び鍵盤の上で踊り出す。
旋律と伴奏が溶け合い、音楽室いっぱいに柔らかな調和が広がった。
その後ろでエリックは、誇らしげに頷いていた。
「お二人とも、なかなかの腕前ですよ」
ロランとソフィは同時に照れたように肩をすくめ、また鍵盤へ向き直る。
音楽室は、三人の笑い声とピアノの音で満たされていく。
――その扉の向こうで、誰かが足を止めていた。
取っ手に触れかけた気配が、ためらうように静止する。
中からこぼれる三人の笑い声が、廊下の冷たい空気を柔らかく揺らした。
その人物は、しばらく耳を澄ませていた。
楽しげな声が重なるたび、胸の奥で何かがきゅっと縮む。
入りたいのに入れない――そんな感情が、影のように足元に落ちる。
やがて、押し殺したような息づかいがひとつ漏れ、その気配は静かに遠ざかっていた。
♢
季節の変わり目。
毎年のように体調を崩すソフィが、案の定風邪で寝込んだと聞き、ロランとエリックが揃って見舞いに訪れた。
客間から寝室へ続く扉の前で、両家の侍従たちが困ったように行く手を塞ぐ。
「殿下、風邪がうつります。どうかこちらで――」
「かまわない」
短く言い切ると、ロランは制止の手を振り切り、まっすぐ寝台へ向かった。
枕元で上体を起こそうとするソフィに、慌てて首を振られる。
「ロラン様……来てはだめです。うつったら……」
布団を口元まで引き上げ、小さく咳きこむ声はかすれていて、聞くだけで胸が締め付けられる。
ロランは迷いなくソフィの手を取った。
「うつしていいよ」
熱を帯びた指先が、彼の手の中でかすかに震える。
「それでソフィが楽になるなら、僕は平気だ」
「そういうわけにもいきません」
即座に割って入ったのはエリックだった。
ロランの肩に手を置き、穏やかだが有無を言わせぬ口調で続ける。
「殿下が倒れたら、もっと大事になります」
侍従たちも一斉に頷き、半ば強引にロランを部屋の外へ促した。
「ちょっと、エリック――」
名残惜しそうに振り返りながらも、最後にロランは大きな声で叫ぶ。
「ソフィ! 元気になったら、また一緒に遊ぼう!」
「……はい!」
返事をしたソフィは、その直後、激しく咳きこんでしまう。
「ほら、だから……」
エリックは苦笑しつつ、そっと扉を閉めた。
その日のうちに、王家の薬師が遣わされ、丁寧に調合された薬が届けられた。
一口含んだだけで顔をしかめるほど苦かったが、その分よく効いた。
数日後には熱も下がり、ソフィの風邪はいつもより短い期間で治まった。
「……ロラン様にうつさなくてよかった」
そう呟きながら、彼女は次に会える日を、静かに心待ちにするのだった。
♢
また別の日。
三人はこっそりと城を抜け出す計画を立て、裏門の影に身を寄せて、息を潜めていた。
「今だ、走れ!」
「わっ、ロラン様、待って!」
「ソフィ様、転ばないでくださいね!」
芝生を駆け抜け、城壁の外に出た瞬間、三人は顔を見合わせて笑う。
ソフィは笑っていたが、その指先は、ロランの袖を掴む力を強めていた。
しかし、自由は長く続かない。
「ロラン殿下――っ!!」
「ソフィお嬢様――っ!!」
従者たちに見つかり、あっという間に捕まえられてしまう。
特にエリックは、ひどく叱られていた。
父である伯爵の声は鋭く、石壁に反響して胸の奥まで突き刺さる。
「殿下の側近としての自覚がまるでない!」
叱責の言葉を浴びながら、エリックは唇を噛み、拳を固く握りしめた。
――殿下の側近として、失望させてしまった。
そんな思いが胸を締めつける。
そのとき、背後から二つの声が重なった。
「俺が誘ったんだ!」
「私が外に行きたいって言ったのです!」
「「エリックは悪くない!」」
振り返ると、ロランとソフィが必死の表情で、伯爵に向き合っていた。
その声は、伯爵の怒声を一瞬で押し流すほど鮮やかに響き渡った。
今まで頼りないと思っていた息子が、王子と公爵令嬢――国で最も高い立場にある二人から同時に庇われた。
その光景に、叱責の言葉は喉の奥で途切れ、伯爵はただ立ち尽くすしかなかった。
エリックは思わず俯いた。
胸の奥が熱くなり、呼吸が少しだけ震える。
叱られているはずなのに、涙がでそうになるほど誇らしかった。
二人の必死の訴えに、エリックは苦笑しながら頭を下げた。
その心の奥では、静かに決意が芽生えていた。
――この二人を守るためなら、俺は何だってする。
今日のことは、一生忘れない。
♢
ロランとソフィ、そしてエリック。
三人は同じ時間を過ごし、笑い、秘密を分かち合いながら、王子や令嬢という肩書きを脱ぎ捨てて、ただの子どもとしていられる日々を重ねていく。
庭園の噴水で水を跳ねさせた日も、図書室でお菓子をつまみながら本を読みふけった日も、全部が宝物のように輝いていた。
このときはまだ、誰も知らなかった。
この穏やかな時間が、いつか――
すれ違いと勘違いの始まりになることを。




