あなたの隣で
窓から差し込む月明かりが、床を淡く照らしている。
ロランは握っていたソフィの手から、そっと指をほどく。
離れ際、わずかに指先が迷った。
「ソフィ。正直に言ってくれて構わない。……本当に俺は、最低だ。こんな俺が、君の隣にいていいんだろうか」
声は落ち着いていたが、その奥には不安と自己嫌悪が入り混じっていた。
自分のしたことの数々――幼い頃の過ち、エリックへの挑発、ソフィを信じ切れなかったこと――が胸を押し潰す。
ソフィには、その声の奥にある濁りがはっきりと聞こえた。
離れたはずのロランの指先が、怯えるようにまた彼女の手に触れようとする。
その躊躇いを感じ取ったソフィは、そっとその手を取った。
温もりが触れ合った瞬間、ロランの肩が強張る。
「……指輪のことも、今夜のことも」
ソフィは喉が詰まりながらも、言葉を紡ぐ。
「悲しかったです。……それでも、私はあなたの隣にいたいんです」
揺るぎのない視線が、まっすぐにロランを見つめ返す。
その視線に触れた瞬間、ロランの肩から力が抜けた。
彼はソフィを抱き寄せる。
強く、けれど壊れものを扱うように丁寧に。
その腕の中で、ソフィの身体から少しずつ緊張がほどけていく。
「最初から君の気持ちを、素直に聞けばよかった」
ソフィは目を閉じる。
長い間、一人で抱えてきた重さが、ようやく溶けていくようだった。
やがてロランは腕の力をそっと緩め、彼女の額へ自分の額を寄せた。
二人はしばらくそのまま、互いの呼吸だけを感じていた。
それでもロランの視線だけは、離れまいとするようにソフィを捉え続けている。
ソフィが目を閉じ、ほんの少し顔を傾ける。
その仕草に応えるように、ロランの唇がそっと重なった。
触れた瞬間の柔らかさと、短いながらも確かな温もりが、心の奥深くまで染み込んでいく。
唇が離れた後、しばらく二人とも言葉を持たなかった。
それからソフィが、少しだけ眉を寄せる。
「……どうして、今まで口づけしてくださらなかったのですか?」
拗ねたようでいて、どこか寂しさを含んだ声。
ロランは答える前に、視線を逸らした。
「……口づけは、君が心から想う相手と交わすものだと思っていた」
「ロラン様なのに……」
小さく頬を膨らませるその様子が愛おしい。
その仕草が、胸を締めつける。
こんな顔を、もっと早く引き出せていたなら――という後悔とともに。
「……俺が、君の唇に触れていい資格なんて、本当はないのに……」
「あります」
ソフィが静かに遮った。
「私は、ロラン様にしか触れてほしくありません」
「本当に?」
ソフィは少しだけ眉を下げた。
「何度でも言います。……それでも、信じてはくださらないのですか?」
ロランは首を横に振る。
「ごめん。……まだ、怖くて」
指先に、無意識の力がこもる。
ソフィはその強張りごと包み込むように、彼を抱き返した。
「私はすべてをあなたに捧げています。……王太子妃であることも、誇りも、全部あなたの隣に立つために選びました」
その言葉を、ロランは正面から受け止めきれなかった。
喉がひりつく。
視線を逸らせば、楽になれる。
けれど、もう逸らせない。
「……どうして、そこまで」
喉の奥が熱を帯びる。
「俺は、君にそんなものを差し出せる男じゃない」
本音だった。
大聖堂で守ると誓いながら、疑い、傷つけた。
それでも、ソフィは逃げない。
「それでも、あなたがいいんです」
不安を振り払うように、ロランは彼女を強く抱きしめる。
ロランの耳元で、ソフィが囁いた。
その吐息がかすかに触れる。
「ロラン様、あなたの不安は、すべて私が受け止めます」
「……ああ」
二人の間に、沈黙が落ちる。
その穏やかさは、あまりにも優しく、あまりにも脆い。
ふと、窓の向こうで風が鳴った。
夜は何も変わっていない。
王城も、立場も、明日も。
ソフィは、長いまつげを伏せた。
胸の奥に残っていた、たった一つの不安が消えない。
――でも、私だけを選んでくれるのだろうか。
ロランはその微かな揺らぎを感じ取り、視線を落とさずに問う。
「ソフィ、気になっていることがあるのか?」
迷う。
けれど、逃げない。
「側室は……どうされるんですか?」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気がわずかばかり張りつめた。
ロランは息を吸い込む。
それが今夜、本当に向き合うべき問いだと、わかっていた。
「君の、正直な気持ちを教えてくれ」
それは王太子としてではなく、ただ一人の男としての問いだった。
ソフィは小さく息を吸い込む。
「嫌です。……王太子妃として正しくないのはわかっています。でも嫌なんです」
涙まじりの声でも、その意志は揺るがない。
ロランは視線を落とし、胸の奥で決意を固める。
――もう、誰の目も気にしない。
――君を守るためなら、すべてを背負う。
「わかった。断る」
ソフィの瞳が大きく揺れる。
「俺が全ての責任を背負う」
「でも……」
そのためらいを、ロランは穏やかに遮った。
「反対は出るだろう。君に嫌な思いをさせるかもしれない。けど……」
視線を外さない。
「俺は、君が他の誰かと並ぶ未来を想像したくもない。王太子妃が望まぬ側室を迎える気はない」
二人の眼差しが強く重なり、深い静寂が落ちる。
「俺が守るから……隣にいてくれ」
ソフィは涙をぬぐい、首を振る。
「隣にいてほしい、のではありません」
ロランの手を取る。
「私は、あなたの隣に立ちます」
蝋燭の灯りが、壁に二人の影を映す。
寄り添うその影に、もう歪みはなかった。
夜の静寂の中で、二つの輪郭が重なり、ただ一つの確かな形を描いていた。




