気づかなかった重み
重なった視線は、もう逸らされることはなかった。
蠟燭の炎が揺らめき、二人の影が壁の上で交差する。
エリックは二人を交互に見やり、ゆっくり口を開く。
「では――ソフィ様。あなたが共に歩みたいのはどなたですか?」
ソフィの頬はみるみる赤く染まった。
けれど視線は逸らさずに、横にいるロランを見つめる。
「ロラン様です」
ロランは目を見開き、胸の奥に思いもよらぬ衝撃が走る。
自分は選ばれていないと思っていたから、口をついて出たのは、拭えなかった疑問だった。
「……俺より、エリックではないのか?」
声は低く、わずかに掠れる。
ソフィは大きく首を横に振って否定した。
「違います。私が好きなのは、ずっとロラン様だけです」
「……俺には、話してくれなかったのに」
その声は、責めるよりも先に傷ついた色が滲んでいた。
ソフィは息を詰め、膝の上で指を握りしめる。
胸の奥を掴まれたような感覚が、細い指先を震わせた。
「それは……」
少しためらってから、やがて顔を上げる。
「……嫌われたくなくて、言えませんでした」
「え……?」
「……ロラン様があまりにも眩しくて。私なんかが隣に立っていいのかと、ずっと思っていました」
そう言ったソフィの指先が強張る。
無意識に、握られていた手をほどこうとした。
だが――逃がすまいとするように、ロランがその指を強く絡めてくる。
繋がれた指先から、彼の震えが伝わってきた。
「エリックには、相談に乗ってもらっただけです。ロラン様が眩しすぎて、怖くて……逃げていたのです」
ソフィは、胸の奥に溜まっていた塊を吐き出すように、深く頭を下げた。
「本当に……ごめんなさい」
ロランはしばらく言葉を失い、ゆっくりと天井を仰いだ。
「……そうか。俺は、勝手に君を遠くへやっていたんだな」
胸の奥に張り詰めていたものが、静かにほどけていく。
蝋燭の影が二人の間を揺らす。
その横顔を見たソフィの胸は、きゅっと縮んだ。
「……おかしく、ありませんか」
小さく問う。
「こんな理由で視線を逸らすなんて……王太子妃として、未熟です」
声が小さく揺れる。
その瞳には、不安が滲んでいた。
ロランははっきりと首を振って、ソフィを見た。
「違う。未熟なのは、俺だ」
「君が何を思っているかも確かめずに、勝手に結論を出した。……信じ切れなかった」
取り返しのつかない後悔に、喉が詰まる。
「……君は、俺を好きだと言ってくれた。俺は……君を守らなかったのに」
ロランの瞳は濡れ、その視線は拒絶されることを恐れる子供のように彷徨っていた。
ソフィは首を横に振る。
「いいえ。あなたを疑わせてしまったのは、私です」
「いや、俺が――」
言葉を自ら止める。
「……いいや。俺が犯した過ちは、君の優しさで薄めていいものじゃない、ソフィ」
その空気を、エリックの声が穏やかに裂いた。
「互いに罪を奪い合っても、前には進みませんよ」
揺れる炎の向こうで、彼は小さく笑う。
「今は――互いの想いを、正しく受け取る時間です」
ロランが静かに、しかし迷いなく口を開いた。
「エリック……俺は、もう逃げない。ここからは、俺に言わせてくれ」
エリックの視線がロランへ向けられる。
その視線は冷静で、揺るがない。
「わかりました」
一言だけ答えたエリックは、口を噤む。
影の中に一歩下がり、舞台を、真の主役たちに明け渡す。
ロランは視線を床に落とし、ゆっくりとソフィを見る。
逃げる理由は、もうどこにもなかった。
「ソフィ」
「はい」
「……好きだ。君が、好きだ」
迷いも、逡巡もない告白にソフィの時間が止まる。
「……初めて、言ってくださった」
ソフィの口から小さな声が零れると、ロランの表情が固まった。
「……一度も言っていなかったな」
エリックは何も言わず、額に手を当てて視線を伏せた。
「わからなかったんです。……私から伝えても、返事はなくて……ブランカ殿に指輪を贈られたと聞いて……」
ロランは瞬きを繰り返した。
「指輪……? ブランカに?」
ロランは怪訝な顔でエリックを見る。
だがエリックも、静かに首を振った。
次の瞬間――
ロランの脳裏に、庭園の陽射し、幼い笑い声、はしゃぐ少女の顔が断片的によみがえった。
はっと息を呑む。
「……あれか」
わずかに目を伏せたその横顔からは、明確な自己嫌悪が滲んでいた。
「……庭園で拾ったんだ」
言葉が途切れる。
「隣にいたブランカが、欲しそうにしていたから……その場で渡した」
エリックの視線が鋭くなる。
「それを……都合よく使った。ブランカが来るのが煩わしくてな」
ロランは目を伏せ、絞り出すように言った。
「これをやるから、ソフィがいる時には来るな、と」
ソフィの手が、ロランから離された。
離された手が、冷えていく。
その手を見つめ、ロランは胸の奥がひりつくような痛みを感じた。
「ブランカを遠ざけるためだった。ソフィ、俺は……君との時間を、子供じみた駆け引きと引き換えにした」
「君を傷つけた。そして――彼女にも、余計な期待を抱かせた」
責める声はなく、沈黙が重かった。
「だが、俺が心から贈ったのは――」
視線が真っ直ぐにソフィに向いた。
「君だけだ」
「ロラン様……」
だが、ソフィの瞳に走った揺れをロランは見逃さなかった。
ロランは許しを請うように、その両腕を掴む。
「すまない、ソフィ。許してくれ」
細くなる声は今にも泣きだしそうだ。
――好きだと言ってくれたのに。自分の過去の愚かな行為が、彼女をまた傷つけた。
――俺は彼女を傷つけることしかできないのか。
窓の外、夜風に揺れる木々の音だけが遠く響く。
「……どう、答えればいいのか、わからないんです」
ソフィは視線を落として言った。
「責めたいわけではないのです。ただ……ロラン様にとって、私はどんな存在だったのか、それが」
「違う」
即座に首を振る。
「君は俺にとって、かけがえのない存在だ。……ずっと、そうだった」
息が乱れる。
「信じてくれ。君が好きなんだ。……もう、失いたくない」
語尾は小さく掻き消えた。
離すまいと抱き寄せたソフィの体が、わずかに硬直する。
それを感じたロランの腕が、ほんの少し緩んだ。
「ロラン様、ごめんなさい」
否定の言葉に、胸を刺される。
腕から力が抜け、突き放される恐怖に目を伏せた。
それでもソフィは逃げずに、ロランを受け止めた。
――私が、ロラン様を“完璧な王子様”という偶像に閉じ込めていた。
――彼が、一人の男性として、これほどまで私を求めて苦しんでいたことに、私は気づこうともしなかった。
「……指輪の件は、確かに傷つきました……とても。でも……私もロラン様を信じ切れていなかった」
ソフィの瞳から、涙が零れ落ちる。
それはロランへの落胆ではなく、自分の幼さへの痛切な後悔だった。
「あなたを、好きな気持ちに変わりはありません」
「……ソフィ」
二人の間に、迷いが見られない。
それを見届け、エリックは静かに頷いた。
「殿下。指輪の件はご自身で収めてください。私はもう、失礼いたします」
エリックは一度深く頭を下げた。
「お二人には、本当に最悪なことをしました。どのような処分も受ける覚悟です」
扉に手をかけたまま、エリックは一度だけ振り返る。
二人はもう、彼を見ていなかった。
――それでいい。
エリックは静かに扉を閉める。
廊下に出た途端、張りつめていた何かが音もなく崩れた。
残された二人の間に、しばらく言葉はなかった。
重なり合う影は、まだかすかに歪んでいる。
夜の闇に溶け込まぬその輪郭は、二人の心の残響を映していた。




