逃げ道を塞ぐ夜
夜は深く、更けていた。
回廊の燭台に灯る炎が、石壁に長い影を揺らしている。
外では風が低く鳴り、城の窓をかすかに震わせていた。
昼間の喧騒が嘘のように、王城は静まり返っている。
その静寂を切り裂くように、規則正しい足音が回廊を進んだ。
エリックだった。
迷いなくソフィの寝所の前に立ち、扉を叩く。
控えていた侍女が、はっと顔を上げた。
「こんな時間に……?」
声は小さいが、戸惑いは隠せない。
エリックは一切の感情を浮かべぬまま、淡々と告げる。
「殿下がお呼びです」
「ですが、本日のご予定には――」
言いかけた侍女の言葉を、低い声で遮った。
「そのままで結構です。時間がありません」
有無を言わせぬ響きに、侍女は言葉を失う。
振り返った視線の先、ソフィはすでに寝台の傍で立ち上がっていた。
自らガウンを手に取り、ナイトドレスの上から羽織る。
厚手の布も、冷えた指先までは温まらない。
それが寒さのせいかどうか、わからなかった。
「……参ります」
小さな声は、夜に溶けるほど頼りない。
厚い絨毯に足音は吸い込まれ、二人は無言のまま回廊を進む。
エリックは半歩前を歩き、ソフィはその後ろを、重い足取りで続いた。
やがて、ロランの寝所前へと辿り着く。
重厚な扉の前で、ソフィはわずかに足を止めた。
無意識のうちに、一歩後ろへ下がる。
その瞬間、手首を強くつかまれた。
逃がさないと告げるような力。
「……エリック」
かすれた声で名を呼ぶ。
「大丈夫です」
静かな返答だが、その手は緩まない。
まるで彼自身も、何かを押し殺しているかのように。
エリックは扉を叩いた。
乾いた音が夜に響くが、返事はない。
「殿下、入ります」
そう告げると、ためらいなく扉を押し開けた。
室内には、まだ灯りが残っていた。
机上には整然と積まれた書類。
燃え尽きかけた蝋燭が、壁に歪な影を落としていた。
静まり返った空間の中、扉のきしむ音だけが異質に響く。
ロランが振り返る。
二人の姿を認めた瞬間、その目が鋭く見開かれた。
「……どういうつもりだ、エリック」
抑え込まれた声は、怒りよりも先に状況を測ろうとする冷静さが滲む。
エリックは答えない。
ソフィの手首を掴んだまま、ためらいなく室内へ踏み込む。
「エリック、離して……」
かすれた声が耳に届いたが、歩みは止まらない。
ロランの脇をすり抜ける瞬間、エリックはわずかに身を屈め、彼の耳元へ顔を寄せた。
「逃げないでください」
囁きは低く、冷たく、逃げ場を塞ぐ響きを帯びている。
ロランの喉がわずかに鳴った。
「最後まで、見届けてください――あなたが、望んだことなんですから」
言い返そうとした声が、喉の奥でつぶれた。
目の前で、ソフィがエリックの腕に引き寄せられる。
白い指が掴まれ、華奢な身体が寝台へと押し倒される光景が、まるで悪い夢のようにゆっくりと進んでいく。
彼女をエリックの腕に追いやったのは、他ならぬ自分だ。
喉まで出かかった叫びが、凍り付いた。今さら、止める資格があるのか。
毒が回るように、後悔が全身を麻痺させる。奪われる恐怖以上に、彼女を疑った自分の愚かさが、刃となって心臓を抉っていた。
「エリック!? 何をするの!!」
突然の衝撃に、ソフィの声が鋭く響いた。
だが、エリックは動じない。
片手で、彼女の両手をまとめて掴む。
力任せではない。
それでも、逃げられない位置取り。
エリックは冷静な動きで体勢を整えた。
足の間に片足だけを割り込ませ、もう片方の足は動かせるよう、あえて隙を残す。
「やめて! エリック、離して!」
必死の声。胸が大きく上下し、髪が枕に広がった。
ソフィは視界の端に、立ち尽くすロランの姿を捉えた。
「ロラン様、嘘……でしょ?」
震える声にロランの肩がわずかに揺れた。だが、彼は一歩も動かない。
「……お願い、こっちを見ないでっ!」
この状況を強いたロランに対しての悲鳴は、助けてと言われるよりも無残に、彼の心を鋭く切り裂いた。
エリックは片手でソフィの顎を掴み、ゆっくりと自分の方へと向ける。
無理に痛めつける動きではない。
そして彼は、静かに顔を近づけた。
その瞬間――
これは賭けだと、エリックは理解していた。
動かなければ、壊れる。
動けば――終わる。
覚悟は決めていた。
処罰も、軽蔑も、受ける。
だが今は――逃げ道を、塞ぐ。
「やだ!!」
「やめろエリック!」
ソフィの鋭い拒絶とロランの声が重なって、室内を震わせる。
ロランが踏み出すのと、ほぼ同時だった。
ソフィの自由にされていた左足が、反射のように跳ね上がる。
迷いも計算もない、本能の動き。
鋭い蹴りが、エリックの腹部を捉えた。
「……っ!」
鈍い衝撃音とともに、エリックの体が大きく揺らぎ、そのまま寝台から床へと落ちる。
燭台が揺れ、炎が一瞬消えかけた。
床に膝をついたエリックは、息を詰まらせる。
肺から空気が強制的に押しだされ、声にならない呻きが漏れた。
ロランは即座に寝台へ駆け寄る。
「ソフィ!」
その名を呼ぶ声は、明らかに動揺していた。
震える肩を抱き寄せると、ソフィは迷うことなく彼の首に腕を回す。
縋るように、強く。
「……ロラン様……」
声はかすれ、体は細かく震えている。
だが、その抱きつき方にはためらいがなかった。
ロランは彼女をきつく抱きしめる。
「大丈夫だ。もう、何もさせない」
なだめる声が、わずかに震える。
腕に込めた力が、彼自身の動揺を物語っていた。
床の上で、エリックは大きく息を吐く。
「……やっぱり、嫌なんじゃないですか」
片膝をついたまま、腹部を押さえる。
ゆっくりと顔を上げ、その視線を二人へ向けた。
蹴られた痛みは確かなはずなのに、どこか力の抜けた声だった。
「殿下、もう少し早く止めてください。……そしたら蹴られずに済みましたのに」
苦笑に近い息が漏れる。
額にはうっすらと汗が滲んでいた。
ロランはソフィを抱いたまま、険しい目で彼を睨む。
「何を考えているんだ」
その声には怒りだけでなく、まだ消えない動揺が滲んでいる。
エリックはその視線から逃げない。
「お二人の気持ちを、はっきりさせようと思いまして」
落ち着いた一言。
その言葉にロランとソフィは、思わず互いを見た。
荒れた空気を整えるように、エリックは一度だけ深く息を吐いた。
揺らめく灯りが心許ないことに気づき、卓上の新しい蝋燭へ火を移す。
小さな炎が静かに立ち上がり、淡い光が三人の影を静かに伸ばした。
「こちらへ」
エリックはロランとソフィを長椅子へと促す。
ロランは警戒を解かないまま腰を下ろした。
その手は、無意識にソフィの手を握っている。
そして――
エリックは、二人から少し距離を取って立った。
主従とも、友ともつかぬ、微妙な位置。
やがて彼は、静かに片膝をつく。
「殿下、妃殿下、大変申し訳ありませんでした」
よく通る声だった。
続いてソフィの方へ向き直り、さらに深く頭を垂れる。
「妃殿下、お怪我はございませんか」
静かな口調だが、そこに混じる悔恨は隠しようもない。
ソフィは一瞬戸惑い、それから小さく首を振った。
視線を落とし、掴まれていた手首をそっと見下ろす。
逃げることはできなかった。
けれど、締めあげられた痕はない。
そして――自由だった左足。
記憶がよみがえり、瞳が揺れる。
「ええ、大丈夫。……それより、私の方こそ……」
言葉を濁す彼女に、エリックは顔を上げ、わずかに肩をすくめた。
「いえ。想定内です。……思っていたより、強烈ではありましたが」
冗談とも本気とも取れる響き。
その軽さに、ソフィの頬がふっと赤く染まる。
ロランの前であんな乱暴な姿を見せてしまった――その羞恥が、今になって押し寄せたのだ。
その様子を見たロランの胸に、ちくりとした痛みが走った。
自分ではなく、エリックと視線を交わしていること。
そして、あの瞬間、自分は動けなかったという事実。
握る手に、わずかに力がこもる。
その微細な変化を、エリックは見逃さなかった。
小さく息を吐き、なお跪いたままロランを見上げる。
「殿下、処罰は受けます。ですが、その前に最後の務めをお許しください」
職務を果たす者の、揺るがぬ声音だった。
ロランは言葉を飲み込み、小さく頷く。
その許可を得て、エリックはゆっくりと立ち上がった。
そして二人を順に見渡す。
「お二人とも――今から本音だけを話してください。取り繕う言葉は禁止です」
わずかな間を置いて、念を押す。
「王太子としてでも、王太子妃としてでもなく。一人の男と、一人の女として」
室内は水を打ったように静まり返る。
燭台の炎が、かすかに揺れただけだった。
ロランはゆっくりとソフィを見る。
ソフィも逃げずに、その視線を受け止めた。
やがて、ほとんど同時に――
二人は頷いた。
深夜の静寂が、部屋を満たす。
揺れる灯火だけが、その行く末を見守っている。




