届かなかった本心
薄曇りの空の下、王城の塔が灰色に沈んでいた。
冷えた風が石壁をなぞり、帰還したばかりのエリックの外套をはためかせる。
隣国からの長旅を終えたその足で、彼は休む間もなく側近室へ踏み込んだ。
差し出された報告書を机に置いた瞬間――
「……どうして、こんなことになっている」
低く漏れた声と同時に、拳が卓上を打った。
乾いた衝撃音が、天井の高い室内に反響する。
痛みは感じなかった。
胸の内を灼く怒りの方が、はるかに強かったからだ。
たった二週間。
王城を離れたのは、たったそれだけの間にすぎない。
その間に、王太子の側室選定が具体案として進められていた。
しかも名が上がっているのは、ブランカ・ジラール。
さらに――
王太子妃ソフィ主催のサロンに、そのブランカが姿を現したという。
自分の不在中に。
それはすなわち、王太子の側近である自分を通さぬまま、別の勢力が動いたということだ。
ソフィの実家、公爵家と我が伯爵家に敵対するもの――ジラール侯爵の顔が浮かぶ。
あの男が笑っている光景まで、脳裏にちらついた。
政治的均衡を崩しかねない策動。
王太子妃の立場を揺るがしかねない噂。
そして――彼女がどんな思いでその場に立っていたのかという、個人的な懸念。
理性と怒りがせめぎ合い、胸の奥を削る。
エリックは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
怒りを鎮めるように見せかけて、しかし歩みは自然と速まる。
向かった先は、王太子妃ソフィのもとだった。
陽は厚い雲に覆われ、王城の一室は昼だというのに薄暗かった。
窓辺に立つソフィの横顔は、淡い灰色の光に縁どられている。
細い指先が、薄いカーテンの端を静かに握っていた。
無意識の力が込められているのか、布地がわずかに皺を寄せている。
扉が閉まる音に、彼女は振り返った。
「……エリック」
いつもより、声に緊張が滲んでいる。
その目の縁がわずかに赤いことを、彼は見逃さなかった。
エリックは礼を取ることも忘れ、まっすぐに問いを放つ。
「側室を受け入れると、本当に仰ったのですか」
室内の空気がぴたり止まる。
ソフィの肩が小さく跳ねた。けれど彼女はすぐに背筋を伸ばし、呼吸を整える。
「ええ。それが、王太子妃の務めですもの」
静かな声音は、まるで用意していた台詞をなぞるかのようだった。
「それが、本心ですか」
踏み込んだ問いに、彼女の唇がきゅっと結ばれる。
視線が揺れ、やがて伏せられた。
「……本心でなくても、そうでなければならないのよ」
エリックは静かに歩み寄り、声を落とす。
「……お伝えしたのですよね。あなたの気持ちを、殿下に」
ソフィは小さく頷いた。
「伝えたわ……でも受け取ってはもらえなかった」
どこも見ていないかのような瞳に、かすかな苦笑が浮かぶ。
それは諦めにも似ていた。
「……私が、」
そこで、言葉が途切れた。
喉の奥が熱を帯びる。
まばたきを一つして、彼女は顔を伏せた。
「しかし、殿下は――」
エリックが反論しかけた、そのとき。
「ねえ」
ソフィがふいに言葉を差し挟む。
視線は床へ落ち、指先がカーテンを離れた。
「ロラン様が、昔ブランカに指輪をあげたこと……知っている?」
「……指輪?」
記憶を探るが、心当たりはない。
「サロンで彼女が言っていたの。小指にはめた指輪を、“お慕いしていた方”から昔頂いたものだって」
言葉の端が、かすかに震える。
「……それが殿下だとは限りません」
「だとしても」
ソフィはゆっくり顔を上げた。
その瞳には、拭いきれない影が宿っている。
「あの場にいた者たちは、私も含めて……それがロラン様だと受け取ったわ」
窓の外で強い風が吹き、木々が大きく揺れた。
枝葉の擦れる音が、重い沈黙をかき乱す。
「貴方にだって、知らないことはあるでしょう? ロラン様が本当は誰を想っているかなんて……」
彼女は最後まで言い切らなかった。
伏せられたままの瞳が、何より雄弁だった。
エリックの胸に、怒りだけではない感情がこみ上げる。
悔しさ。
そして、彼女の孤独を思う切なさ。
拳を握りしめながらも、彼はすぐには何も言えなかった。
軽々しい慰めでは、彼女の傷には届かないと知っていたから。
♢
厚い雲の切れ間から、ほんのわずかな光が差し込んだ。
書棚の影が、床へと細く伸びる。
執務机に向かうロランは、いつもと変わらぬ姿勢で書類に目を落としていた。
整えられた横顔。規則正しい筆致。
何事も起きていないかのような静けさ。
その変わらなさが、かえってエリックの神経を逆なでする。
「……なぜ、お断りにならなかったのですか」
抑えた声音は低い。だが、刃のように鋭かった。
ロランはペンを止めない。
「……俺個人の話ではない」
淡々とした返答。
だが、インクを含ませる指先に、わずかな力がこもる。
「妃殿下のお気持ちは、どうなさるおつもりです」
その一言に、ほんの一瞬だけ、ロランの肩が揺れる。
「……受け入れると、彼女は言った」
「それが、本心でなくても?」
ペン先が紙の上で止まる。
「……本心なら、俺はどうすればいい」
低く、押し殺した声だった。
握る力が強まり、紙に細いしわが寄る。
エリックは一歩も退かない。
「……本心でないと、仰っていました」
その言葉に、ロランは乾いた笑いを漏らした。
「お前には、何でも話すんだな。……俺には、何も言わないのに」
笑っているのに、目は笑っていない。
どうして見落としたのか。
初めての公務を終えてから、二人の空気は和らいでいるように見えた。
少しずつ、歩み寄っているように。
――そう、見えていただけなのか。
忙しさに紛れ、自分がそうであってほしいと願っていただけではなかったか。
踏み込むことを躊躇した。
壊れることを恐れた。
その結果が、これだ。
エリックは一度だけ目を伏せ、わずかに声を和らげる。
「……妃殿下は、殿下に拒まれたと感じておいでです」
ロランの手が止まった。
「拒まれた……?」
「ええ。お気持ちをお伝えになった、と」
静かに、しかし逃げ道を与えない声で。
「ですが……受け取ってもらえなかった、と」
ペン先が震え、紙に黒い線が滲む。
「気持ち? 彼女が俺に?」
「はい。――王太子妃としてではなく、一人の女性として」
ロランの喉が小さく鳴った。
「……王太子妃として、だろ」
掠れた声。
まるで、自分に言い聞かせるような。
エリックは責めず、断じない。
ただ、静かに返す。
「殿下は、そう思われたのですね」
その確認が、刃よりも深く刺さる。
ロランの視線が揺れた。
「なら、どうしてそれを……俺ではなく、お前に言う?」
そこに滲むのは怒りではない。
置いていかれることへの、恐れ。
エリックはわずかに息を吐いた。
「殿下が……聞いてくだされないと思われたからでは」
ロランはゆっくりと椅子に背を預けた。
天井を見上げ、喉の奥で乾いた笑いを漏らす。
次の瞬間、その視線が落ちた。
暗い光を帯びた瞳が、エリックを射抜く。
「お前の方が、彼女をわかっているんだな」
その声音には、皮肉も羨望も混じっている。
ロランは目を閉じ、低く呟いた。
「いっそ、お前が――」
ゆっくりと瞼が開く。
そこにあるのは怒りではなく、諦め。
そして、自分を罰するための言葉。
「……抱いてやればいい」
誰も動かなかった。
互いの呼吸だけが、やけに近く響く。
エリックは、ゆっくりと息を吸った。
行き場を失ったソフィの想いに、握った拳の中で爪が深く食い込む。
「……いいんですね」
静かに、だが決定的に。
「本当に、俺が抱いても」
ロランの瞳が見開かれる。
燭台の炎が揺れ、影が大きく歪んだ。
エリックは目を逸らさない。
「……後悔なさらぬよう」
それだけを残し背を向ける。
扉が閉まると、一人残されたロランは両手で額を押さえた。
整えられていた呼吸が、わずかに乱れる。
「……拒んだつもりは、なかった」
声は、静まり返った室内に沈んだ。
――彼女の本心を聞く勇気がなかった。
ただ、それだけだったのに。
雲が空を覆い、最後の光が消える。
翳った室内で、ロランだけが取り残された。




