小指の指輪
王太子妃ソフィが主催するサロンは、城内でも評判の華やかな催しだった。
午後の陽光が窓から柔らかく差し込み、小さな暖炉の炎が静かに揺れている。
白いクロスをかけた卓上には、香り高い紅茶と色とりどりの菓子が整然と並び、若き貴族の妻たちが優雅に席を囲んでいた。
華やかなドレスの衣擦れと、控え目な笑い声。
扇子の陰に隠された視線。
それらさえ、優雅な作法の一部に見えるほど、静かに整っていた。
挨拶を交わしながら、ソフィの視線は一人の女性に留まる。
ブランカ・ジラール侯爵令嬢。
本来、今日の招待客には名を連ねていないはずの人物。
「申し訳ありません、妃殿下。どうしてもご挨拶だけでもと……強くおっしゃられて」
背後から、幼い頃と変わらぬ声音がそっと落ちる。
振り向かずともわかる。幼馴染であり、この会を取りまとめている伯爵夫人だ。
声にはわずかな困惑が滲んでいた。
立場上も、性格上も、侯爵家の令嬢を強く拒むことはできなかったのだろう。
ソフィは微笑を崩さない。
「構いませんわ。せっかくの機会ですもの。様々なお話を伺えるのは、私にとっても学びですから」
穏やかな声音に、伯爵夫人の肩から力が抜ける。
その様子を横目で確かめてから、ソフィはゆるやかに席へ戻った。
サロンには穏やかな時間が流れていく。
政治や流行の話題が軽やかに交わされ、笑みが幾重にも広がる。
そして、その時だった。
「ブランカ様……随分、趣のある指輪をなさっていらっしゃいますのね」
ブランカの隣に座る夫人の、穏やかな問いかけ。
しかし、その場にいた者の多くが、無意識にブランカの左手へと視線を向ける。
小指に嵌められた金色の指輪。
中心には、小さなピンク色の石が、どこか古びた光を宿している。
ブランカは、ゆるやかに微笑んだ。
「ええ。……昔、お慕いしていた方から頂いたものですの。今では薬指に入りませんから、小指に」
扇子を動かしていた手が、いくつか止まる。
名を出さずとも、この場にいる者のほとんどが思い当たっていた。
幼い日、王太子の後ろをひたむきに追いかけていた侯爵令嬢の姿を。
ブランカは、その沈黙を確かめるように、ゆるやかに視線を巡らせる。
そして最後に、ほんの一瞬だけ、席の主へと視線を置いた。
「あの方は、昔からお優しい方でしたもの。……誰に対しても」
視線が、揺れずに自分へ戻ってくるのを感じた。
誰もが理解している。
それでも、名はでない。
ソフィの喉の奥が、かすかにひきつった。
――ロラン様が、彼女に指輪を。
胸の奥に痛みが走る。
だが、それは表情には出さない。
王太子妃の微笑を、揺るがさない。
ソフィは紅茶に口をつけ、静かに言葉を置く。
「幼いころの贈り物というのは、不思議ですわね。おとぎ話の欠片のように、今とは違う輝きを宿しておりますもの」
否定も肯定もせず、時だけを進める声音。
その余韻に、扇子の影が揺れた。
すかさず、隣に座っていた夫人が笑みを添える。
「それほどまでに美しい記憶だったのですね。幼き日の思い出を、今も変わらず大切にしていらっしゃるなんて……素敵ですわ」
記憶という言葉が、さりげなく場を過去へと固定する。
誰も否定していない。
だが、今ここにある現実もまた、揺るがない。
ブランカは、ただ艶やかに微笑んで、小指の指輪をそっと撫でる。
「ええ。美しい思い出は、形を変えても残るものですもの。……たとえ、役目や立場が変わったとしても」
その声には、静かな確信が宿っていた。
“忘れてはいない”
そう告げる代わりに、“変わった”と言う。
それは挑発ではなく、宣言に近い。
空気が、さらに細く張り詰める。
だが次の瞬間、別の夫人が話題を慈善事業へと滑らせ、緊張は絹糸のようにほどけていった。
王太子妃としての席は、決して揺るがない。
それでも胸の奥で、小さな棘が抜けずに残っていることを、彼女だけが知っている。
「……妃殿下」
隣にいた幼馴染の声が、わずかに躊躇を含む。
けれど、それ以上は踏み込まない。
サロンが終わり、最後の客が見送られると、広間は急に広くなった。
侍女たちが手際よく茶器を下げ、皿を重ね、椅子を整えていく。
先ほどまで満ちていた笑い声はすでに消え、代わりに陶器の触れ合う小さな音だけが静かに響いていた。
「後は私が」
ソフィがそう告げると、侍女たちは一瞬ためらい、それから深く頭を下げて退出した。
やがて、広間には彼女一人が残る。
窓の外はすでに群青色に沈み、冷たい夜気がわずかに差し込んでいた。
胸の奥で、抑え込んでいた思いが、静かに形を成す。
私の想いに、答えをくれなかったこと。
あの夜、側室の話に沈黙したこと。
……最初から、私ではなかったから?
あの場で、あのように言葉を返すのが、王太子妃としての精一杯だった。
あの微笑も、余裕も、すべては務め。
もし、誰もいない場所であったなら。
もし、王太子妃でなかったなら。
ソフィは、あんなに穏やかではいられなかったかもしれない。
長卓の端に指先を置き、そっと力を込める。
――邪魔だったのは、私のほう……。
自嘲にも似た思いが、胸を締めつける。
自分に贈られたのは、髪留め。
きっと、友人としての気遣い。
指輪は、選ばれた者に与えられるもの。
髪留めは、装いを整えるためのもの。
夜になれば外されるそれと、
外さぬ限りそこにあり続ける輪。
どちらが、心に残る贈り物なのだろう。
息が詰まる。
それでも、ソフィは姿勢を正した。
――お二人の幸せを、私が壊してはいけない。
静寂の中、仮面が音もなく外れる。
張りつめていた肩から力が抜け、細い指が震えた。
零れたしずくは、すぐに手の甲へ落ち、彼女は反射のように袖で拭う。
廊下の足音が、遠くで響く。
誰かに気取られる前に。
何事もなかったように、呼吸を整える。
窓の外では、星がひとつ、またひとつと瞬き始めていた。
卓上のろうそくが、小さく揺れる。
落ちた雫は、光の輪の端で、すぐに見えなくなった。




