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すれ違いの、その先で  作者: 鴨治玲


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14/21

小指の指輪

王太子妃ソフィが主催するサロンは、城内でも評判の華やかな催しだった。


午後の陽光が窓から柔らかく差し込み、小さな暖炉の炎が静かに揺れている。

白いクロスをかけた卓上には、香り高い紅茶と色とりどりの菓子が整然と並び、若き貴族の妻たちが優雅に席を囲んでいた。


華やかなドレスの衣擦れと、控え目な笑い声。

扇子の陰に隠された視線。

それらさえ、優雅な作法の一部に見えるほど、静かに整っていた。


挨拶を交わしながら、ソフィの視線は一人の女性に留まる。


ブランカ・ジラール侯爵令嬢。


本来、今日の招待客には名を連ねていないはずの人物。


「申し訳ありません、妃殿下。どうしてもご挨拶だけでもと……強くおっしゃられて」


背後から、幼い頃と変わらぬ声音がそっと落ちる。

振り向かずともわかる。幼馴染であり、この会を取りまとめている伯爵夫人だ。

声にはわずかな困惑が滲んでいた。

立場上も、性格上も、侯爵家の令嬢を強く拒むことはできなかったのだろう。


ソフィは微笑を崩さない。


「構いませんわ。せっかくの機会ですもの。様々なお話を伺えるのは、私にとっても学びですから」


穏やかな声音に、伯爵夫人の肩から力が抜ける。

その様子を横目で確かめてから、ソフィはゆるやかに席へ戻った。


サロンには穏やかな時間が流れていく。

政治や流行の話題が軽やかに交わされ、笑みが幾重にも広がる。


そして、その時だった。


「ブランカ様……随分、趣のある指輪をなさっていらっしゃいますのね」


ブランカの隣に座る夫人の、穏やかな問いかけ。

しかし、その場にいた者の多くが、無意識にブランカの左手へと視線を向ける。


小指に嵌められた金色の指輪。

中心には、小さなピンク色の石が、どこか古びた光を宿している。


ブランカは、ゆるやかに微笑んだ。


「ええ。……昔、お慕いしていた方から頂いたものですの。今では薬指に入りませんから、小指に」


扇子を動かしていた手が、いくつか止まる。


名を出さずとも、この場にいる者のほとんどが思い当たっていた。

幼い日、王太子の後ろをひたむきに追いかけていた侯爵令嬢の姿を。


ブランカは、その沈黙を確かめるように、ゆるやかに視線を巡らせる。

そして最後に、ほんの一瞬だけ、席の主へと視線を置いた。


「あの方は、昔からお優しい方でしたもの。……誰に対しても」


視線が、揺れずに自分へ戻ってくるのを感じた。


誰もが理解している。

それでも、名はでない。


ソフィの喉の奥が、かすかにひきつった。


――ロラン様が、彼女に指輪を。


胸の奥に痛みが走る。


だが、それは表情には出さない。

王太子妃の微笑を、揺るがさない。


ソフィは紅茶に口をつけ、静かに言葉を置く。


「幼いころの贈り物というのは、不思議ですわね。おとぎ話の欠片のように、今とは違う輝きを宿しておりますもの」


否定も肯定もせず、時だけを進める声音。

その余韻に、扇子の影が揺れた。


すかさず、隣に座っていた夫人が笑みを添える。


「それほどまでに美しい記憶だったのですね。幼き日の思い出を、今も変わらず大切にしていらっしゃるなんて……素敵ですわ」


記憶という言葉が、さりげなく場を過去へと固定する。


誰も否定していない。

だが、今ここにある現実もまた、揺るがない。


ブランカは、ただ艶やかに微笑んで、小指の指輪をそっと撫でる。


「ええ。美しい思い出は、形を変えても残るものですもの。……たとえ、役目や立場が変わったとしても」


その声には、静かな確信が宿っていた。


“忘れてはいない”

そう告げる代わりに、“変わった”と言う。


それは挑発ではなく、宣言に近い。


空気が、さらに細く張り詰める。


だが次の瞬間、別の夫人が話題を慈善事業へと滑らせ、緊張は絹糸のようにほどけていった。


王太子妃としての席は、決して揺るがない。

それでも胸の奥で、小さな棘が抜けずに残っていることを、彼女だけが知っている。


「……妃殿下」


隣にいた幼馴染の声が、わずかに躊躇を含む。

けれど、それ以上は踏み込まない。


サロンが終わり、最後の客が見送られると、広間は急に広くなった。

侍女たちが手際よく茶器を下げ、皿を重ね、椅子を整えていく。

先ほどまで満ちていた笑い声はすでに消え、代わりに陶器の触れ合う小さな音だけが静かに響いていた。


「後は私が」


ソフィがそう告げると、侍女たちは一瞬ためらい、それから深く頭を下げて退出した。


やがて、広間には彼女一人が残る。


窓の外はすでに群青色に沈み、冷たい夜気がわずかに差し込んでいた。


胸の奥で、抑え込んでいた思いが、静かに形を成す。


私の想いに、答えをくれなかったこと。

あの夜、側室の話に沈黙したこと。


……最初から、私ではなかったから?


あの場で、あのように言葉を返すのが、王太子妃としての精一杯だった。

あの微笑も、余裕も、すべては務め。


もし、誰もいない場所であったなら。

もし、王太子妃でなかったなら。


ソフィは、あんなに穏やかではいられなかったかもしれない。


長卓の端に指先を置き、そっと力を込める。


――邪魔だったのは、私のほう……。


自嘲にも似た思いが、胸を締めつける。


自分に贈られたのは、髪留め。

きっと、友人としての気遣い。


指輪は、選ばれた者に与えられるもの。

髪留めは、装いを整えるためのもの。


夜になれば外されるそれと、

外さぬ限りそこにあり続ける輪。


どちらが、心に残る贈り物なのだろう。


息が詰まる。

それでも、ソフィは姿勢を正した。


――お二人の幸せを、私が壊してはいけない。


静寂の中、仮面が音もなく外れる。

張りつめていた肩から力が抜け、細い指が震えた。


零れたしずくは、すぐに手の甲へ落ち、彼女は反射のように袖で拭う。


廊下の足音が、遠くで響く。


誰かに気取られる前に。

何事もなかったように、呼吸を整える。


窓の外では、星がひとつ、またひとつと瞬き始めていた。


卓上のろうそくが、小さく揺れる。

落ちた雫は、光の輪の端で、すぐに見えなくなった。


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